2008年06月06日(金曜日)
1935.ほんの少しの可能性が
今ホテルの部屋の中でトニーが迎えに来てくれるのを待っている。
午前11時に来てくれる約束だが、
しかし、今日がチェックアウトなので、
10時ぐらいには部屋を出なければならないかもしれない。
それを忘れていて、11時の約束にしてしまった。
部屋の外でほかの部屋を掃除している音がしていて、
いつ、「部屋を早く出てくれ」と言いに来るかもしれない。
これがけっこう不安なもので落ち着かないのだ。
これが日本ならば、「何時がチェックアウトの最終時間ですか?」と聞けばいいだけだが、
何せ、私はほとんど英語が出来ないので、
たどたどしく聞くのもいいが、何か言われたらさっぱり解らないので、
とりあえず、じっと部屋でいて、これを書いている。
言葉が通じないことはほんとに不自由だ。
自分の意志を相手に伝えられないことほど不安なことはない。
また、相手の意思が理解できないことほど不安なこともない。
こんな些細なことからも、意志の疎通が出来ない不安をつくづく思うのだ。
自分が大きな病気になって、
人工呼吸器をはめられて口が利けなくなり、
手足も何も麻痺して動かなくなって、まったく自分の意志を相手に伝えられなくなった時、
それがどんなに恐怖であるか容易に想像できる。
英語が出来ないでびくびくしている私なんかとはまったく比べものにならない。
多くの人が、「自分が病気で倒れたら延命処置だけはしないで欲しい。」
と、家族に言っている。
私もそう言っているし、連れ合いも、私の母も、父もそうだった。
しかし、いざ、自分の家族が病気で倒れ、
今、人工心肺装置を着けなければ死んでしまうと宣言され、
しかし直る保証も出来ないが、
しかし治療を続ければ回復する可能性はゼロではないと言われたら、
私はどうするだろう。
その病人が、
結果的に助からなければ人工心肺は延命処置の意味でしかなくなって、
その人の意志を背くことになる。
しかし、結果的に助かって、
何らかの回復があったとしたら、
「生きていて良かった」と価値のある幸せがそこにあるかもしれないし、
その処置はその人を助けたことになる。その人を幸せにしたことになる。
犬を例に出すのは不謹慎であるが、
前話のミーちゃんは、
獣医さんから助からないことを宣言されたにもかかわらず、
自らの食欲でまさかの回復をした。
今では、旺盛な食欲で毎日を楽しんでいるように見える。
あの時「食べさせる」などという無茶をしなければ死んでいた。
命は、科学的な判断だけでは分からない部分があって、
奇跡と思えるようなこともいっぱいあって、
その確率が非常に低いものであっても、ゼロではないとするならば、
その人が回復してくれた時のその人の幸せを考えると、
その希望をゼロにすることを意味する人工心肺の装着拒否を私はできるだろうか。
しかし、それが本人の苦しみを増すだけだとしたら・・
救われない葛藤にもだえ、苦しむだろう。
その判断を冷静に出来る人は絶対にいまい。
自分の意志を伝えることが出来なくなった本人にとってはどうだろうか。
苦しみの真っ只中にいる時は、
あれほど頼んでおいたのに、
なぜ、私にこんな苦しみを与えるようなことをするのか。
と思うだろうし、
しかし、徐々に回復してきて、楽になってきたとしたら、
生きることに希望を持てるようになって、
私を助けてくれてありがとう。生きていて良かった。と思うだろう、
「愛することとは相手の幸せを願う気持ち」という言葉があるが、
だとしたら、少しでも回復の可能性があるならば、
相手が「幸せだ」と感じてくれるようになる可能性に賭ける事になるか。
多分そうだと思う。
相手の苦しみを自分の苦しみとして受け入れなくてはならない一番苦しい決断を、
相手のわずかな幸せの可能性に賭けて、一緒に苦しむことを選ぶかもしれない。
それがたとえば連れ合いだとすれば、子供だとしても、
人生の中で一番苦しい場面であろう。
そんな最も残酷な苦しみは、
自分の意志が伝えられない苦しみと、
相手の意思が解らない苦しみからつくられるもので、
愛するが故に、救いのない戦いかもしれない苦しみを耐えるしかないこともある。
生きるってこと。
もうすでに人生の半分以上を生きてしまったが、
いまだに難し過ぎて、思うことがあり過ぎて、混乱することがある。