2008年04月28日(月曜日)
1902.不幸な人は、不幸な人?
昨日の朝日新聞に、
中国では「国家転覆罪」とか何とかいう罪があって、
チベットの暴動について肯定的な発言をしたり、文章に書いたりした人
一人っ子政策の一環で強制堕胎が行われている事実や
一方的な強制退去が人権侵害であること告発する人。
共産党、政府の政策を批判、反対する人は、
政治犯のようにこの法律が適用され、
人権を無視したような取調べが、拷問のごとく行われていると記事になっていた。
私はそれが事実であるのかどうか全く知らないので、
それをとやかく言うことは出来ないが、
日本では「政治犯」という存在も概念もなくなって久しいので、
それが事実としたら、国民が国家に服従を強いられる何とも恐ろしい国と感じる。
しかし、数十回にわたって中国に行っても、
上海でも、北京でも、
大連、青島、広州、深玔、香港でも、
錦州、昆明、南昌、蘇州、紹興、西安でも
どこに行っても、
そんなようなことは微塵も感じなかったし、
共産党の文字も政治的スローガンすらほとんど気が付かなかった。
むしろ、どこに行っても日本よりも資本主義を感じたし、
実質的には中国での共産主義はなくなっていると思い込んでいたのだ。
しかし、今回の聖火リレーにまつわるトラブルに対して、
中国人留学生が大挙してリレーの沿道に集まり、
五星紅旗を打ち振る姿を見ると、
中国が世界の中心であるとする中華思想によって強く結び付けられた
民族主義の国であることを思い知らされ、
個人の利益、家族の利益、
国家の利益という内側への志向が強い国で、
世界の中でも特異な国家であることを、今更ながら思い知らされた。
そういう意味では、
日本は、世界レベルで有数の民族意識の希薄な国民となっているのかもしれない。
いろいろな意味で、日本はのんびりとした平和な国になっているのだろう。
では、のんびりとして平和な日本国の人は、
みんな幸せなのかと言うと、
そうでもなさそうだ。
不幸の素はいくらでもある。
欲しいものが買えない。もっと広い家に住みたい。
亭主の稼ぎが悪い。
もっと楽な生活がしたい。
仕事がしんどい。休みが取れない。
女房がきつい。小遣いが少ない。
病気が治らない。
人間関係がうまく行かない。子供が反抗期。
・・・・・・・・・・
もっともっとあるだろう。
しかし思うのだが、
不幸な人は、不幸な人だから、不幸な人なのだと。
たとえば、
Aとい欲しい物が買えなくて不幸だと感じる人がいるならば、
Aを手に入れると、今度はじきにBが欲しくなって、
Bが買えないことに不幸を感じ、
今度はBが手に入っても、じきにCが欲しくなって不幸になる。
その人は、ずっと不幸の連続の一生を送ることになる。
だから、
Aが買えなくて不幸な人は、そう思うこと自体が不幸な人であって、
それをどこかで断ち切らないと不幸な人であり続けるしかないことになる。
たとえば、
今の仕事は足がきつくて不幸だと思う人は、
足がきつくない仕事をすればいいのだが、
足がきついのが不幸だと思う人は、
多分、目がきついのも、神経がきついのも、
ノルマがきついのも、時間が長くてきついのも、
何がきつくても不幸だと思う場合が多く、もっともっと楽な仕事を探すだろうが
すべてにおいて楽な仕事などありゃしないので、
ずっと不幸なままで働くしかないのか。
▲▽□×なので、自分は不幸であると思っている人は、
不幸であると思うこと自体が、不幸なのであって、
何がどうなっても、じきに代わりの不幸の素×▽■が出来るので
永遠に不幸な人であるに違いない。
中国の政治犯と呼ばれる人たちは、
きっと肉体的、精神的苦痛の真っ只中で、
自分を不幸だと思うだろうか。
自分の信念を通すことによって陥った自分の境遇を不幸だと思うだろうか。
不幸どころか、死んでも本望だ。と思っているのでないだろうか。
その家族はどうだろうか。
その政治犯が、家族の生活のことを思って、自分の信念を曲げたとしたら、
その家族は幸せだと思うだろうか。ありがたいと思うだろうか。
その子が大きくなって、自分の親が自分の生活のために信念を曲げ、
権力に屈服したとしたら、
子は、その親を尊敬するだろうか。
「私は君のために自分の信念を曲げ、屈服した。」と言われて、
「ありがたい。」と思うだろうか。
その人が幸せであるか、不幸であるかは、
その人の心の中の問題だと思う。
欲しいと思った物が買えなくても、仕事がきつくても、
亭主がもらってくる給料に満足できなくても、
自分の美貌が乏しくても、親が貧しくても、背が小さくても、高くても
やせっぽちでも、デブでも、人間関係かうまく行かない時があっても、
それを不幸と感じる人は、
何があっても不幸であり続けるだろうし、
それでも幸せだと思う人は、
それこそどんな不幸がやってきても、
それを跳ね返して、自分の力で幸せを勝ち取るだろう。
それが他人からは不幸に見えても、
本人には幸せに感じることもあれば、
他人から見て羨むような生活をしていても、
不幸な人は、やっぱり不幸であり続けるものではないか。
不幸な人は、不幸だから、
どこまで行っても何を得ても不幸は続くので、
気力のない人生が続き、不幸であり続ける。
逆に、今が幸せならば、もっと大きな幸せを得るだけの力が出る。
何がどうあっても、
それでも幸せであるということを受け入れた上で、
頑張ればいいのだ。そうすればもっと幸せになれるはずだ。
朝日新聞の中国における政治犯の記事を読み、
こんな風につながってしまった。
いよいよゴールデンウィークの本番である。
今月4月の前半、土日のたびの「雨」にたたられ、
4月10日時点で、前年同日対比68%にまで落ち込んだが、
後半盛り返して、今日、とうとう前年同日対比104%にまで上がってきた。
車を、心を込めてキレイにし、
お客様からの「ありがとう」という言葉で癒されるこの仕事は、
間違いなく、人を幸せに出来るやり甲斐のある仕事である。
ちょっと遅れて福岡から合流した新人の中島君。
ちょっと歳いっているが、フットワークも軽く、積極性も十分。
11人の同期新人諸君、強力なライバルだぞ彼は。
この会社では、仲間が忙しいとなれば常務取締役でも店舗に駆けつけるのだ。
役職が上に行けば「しなくてもいい」なんて楽になるようなヤワな会社ではないのです。
しかしこの馬鹿たれH.オサムは、
ブログに、私がいつも女の人がいる飲み屋さんに行っているような
世間に誤解を与えるような事を書いたので、絶対報復してやるのだ。(いや、されたのかな?)
ムフフの村藤統括マネージャー。
やっと新しくなった刈谷店を自在に使いこなせるようになったようです。
途中でへんなものを見た。
シェルのガソリンスタンドにENEOSのクーラーガスののぼり。
暫定税率復活に備えてか、どのスタンドも給油客でいっぱいであった。
知立店に到着したら、意外にもガラガラで
「午前中はぎっしりだったんですよ」と竹内大輔店長は言うが、
鳥糞の爆撃をボンネット中に受けていた私の車を洗ってくれた。
三ヶ月ぶりの洗車である。
しかし洗いはじめたら、あれよあれよと言ううちに六台のお客様が来店され、
知立店の中はたちまち満タンになった。
ありがたいことである。
「もういいよ。」と途中で私の車の洗車をやめさせたが、
竹内店長にしっかりと満額洗車代を払った(払わされた?)のは当然である。
(私はいつもこうなのだ)
五島列島から来た新人の田中君。
彼は釣りが大好きで、それも五島列島のダイナミックな釣りが大好きで、
働き者の底抜けに明るい大型新人なのです。
安城店もまずまずの繁盛振り。
通勤距離の長い新人の浅野君が「今日は道が空いていました。」と笑っていた。
たまたま「つり銭」を柴田店長の奥さんが店に持ってきてくれた。
この奥さんはほんとに感じいいですねー。
わざとえばって見せる柴田店長が憎たらしいですねー。
もったいないですねー。
柴田店長のおじさんパワーの元気の素はこの奥さんだったんだ。
このごろ、新人の中でもちょっと先輩の谷東君が、
自信のある顔になってきていて驚いた。もう一人前になるのも近そうです。
今日最後の岡崎店では、帰らなくてはならない時間が近づいていて、
ほんのちょっとだけ寄って帰ってきてしまった。
地域のランドマークにもなっている岡崎店の大看板も、
そろそろ書き直しの時期です。
夏前にはスカッとした「コーティングプロショップ快洗隊」に変身するでしょう。