2007年12月25日(火曜日)
1806.TVが絶対言わない事
昨日はクリスマスイブ。
キリスト教徒でもないのに、とか何とかはとりあえず置いといて、
クリスマスイブは日本の一大イベントになっている。
クリスマスではなくクリスマス“イブ”が、である。
クリスマスイブは子供たちにとって、ケーキが食べられる日であり、
サンタクロースがプレゼントを買ってきてくれる日で、
若い男女にとっては、イブの夜を誰と過ごすかが最大の関心事。
ほとんどの人がキリストの誕生日であることなど関係ない年末の大イベントデーである。
それはそれでいい。
残念なのは、あのジャズシンガー今岡友美が
今日25日、名古屋マリオットホテルでクリスマスライブをやっているのに、
私は今、年末の挨拶回りのために新幹線で東京に向かっていて、
夜は、男どもと飲み会となることぐらいか。
でもクリスマスイブはたいていの場合、
子供のいる家庭のイベントで、
子供の思い出に残る日なのであろう。
そんな時は、
テレビは、消すに限る。
イベントでありたいならば、テレビは消すに限る。
テレビは一方的に情報と刺激を与え、
見ているこちらは一方的に受身になる。
こちら側はテレビから刺激を一方的に受けるので、
こちら側の人間の間のコミュニケーションが成り立つ隙間はほとんどない。
テレビは視聴率が唯一の命であって、
いかにこちら側の関心を外さないかだけに腐心し、
より強い刺激を与えようとして、あの手この手と、プロの力で押してくる。
そんなプロフェッショナルたちの術に、私たちこちら側は抗する手段を持っていない。
ただ、ただ一方的に刺激に縛られるだけである。
抵抗する手段が唯一あるとすれば、
テレビを消すことである。
一方的に与えられる刺激に疲れて、
ふと、テレビを消すと、
家族の顔が見え、家族の声が聞こえ、みんながいることに気が付く。
そこから初めて会話が生まれる。
テレビをつけたまま、
みんなで同じような刺激を注入されながらの会話は、
テレビ側の手中に入ったままの視聴者どうしの会話であり、
人と人とのコミュニケーションではない。
その人の考え方とか感性が、そのままではなく、
テレビからの刺激を介してのものであって、
脳細胞の表面しか使っていない薄っぺらなものだ。
今の世の中の殺伐とした部分の多くは、
人と人との会話が欠如している要素が大きいように思う。
人と人との会話は、相手の言っていることを理解し、
相手の気持ちを思い図ることによって成り立つ。
自分勝手な一方的な自分を相手に押し付けて、なお成り立つ会話などない。
会話とは、自分の考えたこと感じたことを話し、
相手の考えたことを聞き、感じたことを聞き、
そのやり取りによって、
相手を理解し、自分を理解してもらって、
お互いにその接点を共有し、共感することによって成り立つ。
それが、子供の時からテレビからの一方的な刺激を受け続け、
家族との会話も、テレビを着けっぱなしで、テレビからの刺激を介したものになると、
人と人との直接の会話の機会、
特に親である大人との会話の機会を失って、
コミュニケーションの基本を身に付けないまま、
大人になってしまうことが多いのでないだろうか。
新聞を読まない人が多くなったという。
新聞とか本とかから受ける情報や刺激は、一度自分の中で読解しなければならない。
つまり、自分の中にある理解力という能力を発揮しなければならず、
テレビのように情報を刺激的に直接的に注入してくることに慣らされていると、
情報そのものがいかに重要なものであっても、
理解力を要する必要があるものにはまったく刺激を受けなくなる。
情報を受けて、それを自分の中の理性というフィルターを通して理解するのが通常だが、
今は、TV情報から直接の刺激を受けて、自分の中にインプットしてしまう
今の世の中の不可解な事件や出来事を理解するには、
刺激に対してまったく受動的でしかない人たちの自己本位な在り方を思うと、
すべてつじつまが合うようだ。
テレビが今の世の中の不可解な事件や出来事を声あらわに嘆くならば、
その要因の片棒を担いでいるTVの自らの存在に気が付いていないわけがない。
人と人とのコミュニケーションが脳細胞レベルで破壊されつつある要因が、
自らが発している一方的な刺激によるところが大きいことに
気が付いていないわけがない。
一方的な刺激源である正義の”みのもんた”的な人たちよ、
不可解な事件を非難する前に、
理不尽な出来事を嘆くより前に
「今一番必要なのは、テレビを消して、家族の会話を取り戻すことだ。」
と、言ったらどうか。絶対に言えないだろうな。
それだけは。
ここ三日間に出会った感動。