2007年10月25日(木曜日)
1761.本当は、私はいない?
じっくりと人生を楽しむ生き方がある。
自然の中に身を置き、季節の移り変わりを楽しむ。
自然の恵みをいただき、
自然の厳しさを受け入れ、
自分が、自然の一部であり、宇宙の一部であることを念の中に常に置き、
自分の存在を自然の中に映し出すことによって、
自分の存在に確信を持つ。
そして安堵を得る。
そんな風になりたいなぁ、
とは思うのだが、
まだまだ私には出来そうにない。
せめて、自然の大親分であるところの宇宙について考える。
宇宙はたった150億年前に、
真空のエネルギーからのビックバンによって生まれ、
一瞬の何百万倍の1の劇的なインフレーションを経て、
宇宙全体が膨張しながら今の姿に至っている。
この膨張する宇宙は、
膨張するエネルギーと、
全宇宙の質量による重力(引力)がバランスするかどうかによって、
膨張し続けるか、いつかの時点で重力が勝って収縮に向かうか、
そのいずれかであるが、
収縮に向かうに必要な重力(引力)を生むだけの全宇宙の質量は、
今“見えている”星のすべての質量の100倍も必要であるという。
実際の宇宙の質量が見えている宇宙の100倍とは
あり得ないことのように思えるが、
それがあるかもしれないというのだ。
太陽の数百倍もの質量を持った恒星が
その末期の超新星爆発のあとに残った中性子星、
あるいは白色矮星、
銀河の中心部にあるような想像を絶する巨大な“見えない”ブラックホール。
これらは光としては見えず、X線としても直接は見えないことがあっても
そこから発せられる巨大な重力による重力レンズの現象で
その存在は明確に確認されていて、
その数は膨大である。
しかし、それらをすべて集めても、
とうてい見えている星たちの100倍の質量には至らない。
あるとしたら、
宇宙を恐るべき密度で埋め尽くし、
ありとあらゆる物体を通り抜けるニュートリノの存在だ。
他の可能性のある物質も含めて見えない質量をブラックマターという。
特にニュートリノに質量があるかどうかが大問題で、
光子のように質量がゼロならば、
宇宙は永遠に膨張し続けるし、
人間の科学ではとても計測できないほど小さくてもニュートリノに質量があったとしたら、
宇宙はどこかの時点で膨張から収縮に転じるという。
それでも1兆年の時間がかかるとか。
だとしたら、宇宙が生まれて150億年という今は、
人生にたとえるならば、生まれてまだ1秒も経っていないということになる。
だから最初に150億年を、“たった150億年”と表現した。
しかし、それでも宇宙全体の質量が
膨張から収縮に転じるための質量に足りないとしたら、
宇宙は永遠に膨張するしかなくなるのだが、
永遠に膨張し続けるとはどういうことだろうか。
永遠とは無限の時間ということである。
しかし、今という時間が存在しているということを考えると、
無限の時間に渡って宇宙が膨張するという概念が、
私にはどうしても理解できない。
簡単な算数で、
分母に無限=∞があると、
分子にいかなる数字が来ても答えはゼロである。
つまり無である。n/∞=0
永遠の中ではいかなる長い時間であっても、
それが有限であるならば、すべてゼロになってしまうのだ。
しかし現に、今という時間は有るし、私はそれを生きている。
また、永遠に宇宙が膨張し続けるとしたら、
宇宙空間の物質の密度は、
時間の経過によって疎になっていくわけだが、
その時間が無限であったとしたら、
無限の時間の中にある密度は、
分母に無限が来るわけなので、答えはやはりゼロになる。
あらゆる物が、永遠の時間の中では””無“になるわけだ。
しかし、私という物質はここに有るし、
それを意識している自分があるという意味で存在している。
無ではない。
とすると、
解として表される私が無ではないなら、
分母である時間は無限∞ではないはずだ。
だとすれば、永遠の膨張はないことになって、
ブラックマターは、見えている宇宙全体の質量の100倍以上あるということになる。
果たしてそうなのか?
E=MC²ならば、
ブックホールの事象の地平線で光はなくなるし、
時間は止まることになっている。
宇宙は収縮に転じるだけの十分な質量を主にブラックマターとして持っていて、
重力によってすべての宇宙が中心に落ちて行った時、
最終的に全宇宙のすべてが一つになった終末のブラックホールが出来て、
その事象の地平線において時間が止まるということなのか。
しかし、ニュートンの万有引力の理論も、
アインシュタインの相対性理論も、
鼻でくくったような量子論なる頭が痛くなってくるような理論があって、
スティーブン=ホーキンスは、
ブラックホールは量子的に蒸発すると言っている。
ブラックホールが蒸発するなら、
ブラックホールから出て行った素粒子は事象の地平線を持っていないので、
時間はやっぱり進むことになって、
その終わりがないならば、宇宙が収縮に転じても時間は無限に続くことになってしまう。
ならば、やはり、私は「無」か。
n/∞=0
とすれば、自らを認識している自分は一体何なのだろう。
私はいないのか、私が見えているものはすべて無いものか。
ならば、今見えているものはなんだろう。
見ている私はなんだろう。
すべて錯覚なのか。
・・・・・
最近、布団の中で読んでいる「宇宙、最後の3分間」という難しい本に熱中していて、
私の乏しい知識をかき回すようなことがいっぱい書いてあって、
それを思い出して、考えていたら
結局、自分は無であって、いないことになってしまった。
困ったものである。
私は、今、東京から長野新幹線で長野駅へ向かっている。
昨日は事務所で一日中、仕事の原稿を書いていた。
朝から晩まで洗車のことやら、
快洗隊のことやら、車検のことやら、
今まで構想の中で蓄えたことを一気に吐き出して、原稿にする。
丸一日、頭の中を仕事漬け、それも濃密に仕事漬けにして原稿にし
今日の午前中、その結果を東京に持ってきてプレゼンテーションを終えた。
だから、東京から長野への1時間40分だけ、仕事のことを考えたくなくなって、
こんな訳の分からない話を書いてしまったのだが、
その挙句、
まさか、自分が“いない”ことになってしまうとは
思ってもいなかった。
長野では、
キーパープロショップ長野ブロックミーティングが開かれる。
名古屋から東京への新幹線から、
てっぺんに笠雲を被っている富士山が見えた。
そして東京から長野。
また、たくさんの人たちとの緊張した時間を経て、
結局、また、飲んでしまった。
こんなに楽しい私が“無”であるとは信じられないし、
この人たちまでが無であるわけがない。
いい時間でした。