2007年08月09日(木曜日)
1700.気づけば一区切り
ひとつ話を書くたびに番号を振っていくのは、
自分に対する区切りをつけるため。
目標に対して自分が今どこにいるかを知るためだ。
それが、ふと気がつけば1700になった。
ここに書き始めて1700の話が今回であることは、
それだけで嬉しいものである。
とりあえず2000まであと残り300になったわけで、
300話を書くというと多分一年ぐらいかかるだろうから、
あと一年経つと2000話目がくるという目標が持てる訳だ。
しかし、2000になると何かあるかといえば別に何もあるわけではないが、
何らかの達成感を得ることは出来るだろう。
ただそれだけである。
ただそれだけでも自分の目安になるし、何となく安心なので、これからも番号を振り続ける。
たとえば、道を行くにも目的地まで何kmあって、
今は何km目だから、あと半分という感じで、
自分のやっていることが、何処まで来ているのかは知りたいものだ。
たとえば、どこへ行くのかも知らされず、
どれだけ歩くのかも知らず、
ただただ黙々と歩き続け、
止まれと号令がかかるまで歩いていろと言われたら、
それはとてもつらいことで、ある意味では拷問と一緒だ。
むかし、太平洋戦争で、硫黄島など激戦地において、
「玉砕」という名の全員が死ぬまで戦うという勝ちのない戦いで、
兵隊は何を目標に戦ったのだろうか。
自分にとって、自分が死ぬことしか自分の戦いが終わらないとしたら、
人はその戦いに何か目的と目標を持てるのだろうか。
その戦いの果てに、死ぬことなく動けなくなった場合は自殺することを強要されて、
人は生きる希望を持てるものなのだろうか。
目標もなく、目的もなく、希望もなく、ただ死ぬまで戦うとは一体どういうことなのだろう。
そんなことを想像すると、
戦争の持つ本質的な恐ろしさを感じる。
あらゆる行動において目的とか目標は、
それを遂行するエネルギーとなり、動機となる。
その逆に、戦争とは
自分自身に目的とか目標を持ってはならず、
兵隊は命令に従うことしか許されない。
たとえば、自分が愛する人を「殺せ」と命令されれば、殺さなければならないし、
その命令に従わなければ自分が殺される。
自分の行動は、自分の動機と価値観で決められるのではなく、
上からの命令だけなのである。
戦争とは、
その存在そのものが非人間的なのである。
もうすぐ終戦の日。
私は平和である。
洗車という車を乗る皆さんが喜ぶ仕事で生活をさせてもらって、
その事業によって、たくさんの人との縁を得た。
今日の午前中は金沢。
新しい快洗隊フランチャイズ店がスタートしたのだ。
「快洗隊・寺町店」
金沢の古いお寺が並ぶ「寺町」は景観条例が厳しく、
非常に地味な色の快洗隊になりました。
古い町並みが続く
緑色の「快洗隊」は、初めてである。
藤田店長と、たまたま居合わせた他店の研修スタッフ。
戦争は憎むべきだが、戦闘機ゼロ戦のエンジンは美しかった。(河口湖空港博物館で)
戦いを前に集中する三沢選手。レースは平和な戦いだ。