2006年12月10日(日曜日)
1528.相手を感じる能力
一昨日、印象的なことがあった。
大きな会社、それも発展する活発な会社とのお付き合いが多く、
重要な役割を果たしている立場の方とお会いし、
私としてはこの方に、我々の事業ついての説明をするものだと思っていたら、
やおら、この人から話し始め
「私は洗車事業が大きな魅力を持っていると思うんですよ。
たとえば、私は横浜の○○に住んいて、ここは▲▽な人がいっぱいいて、
車をきれいにするのに・・・・だと思うんですよ。
私だったら、こんなサービスが受けられたら一万円は払います。
それで・・・・・、・・・・・」
と、ほとんどご自分が話して帰って行かれた。
その話の中でたびたび出てきたのは「ユーザー視点」という言葉。
この人のユーザー視点とは、
自分がその人になりきって、ワクワクした感情でそのビジネスを見る。
話が続く中で、どんどん違う人間になって
そのビジネスの魅力と可能性を引き出していくことのようだ。
これは面白かった。実に面白かった。
お客様の立場に立たないと、
自分の店も商品も、サービスも何も見えない。
今、自分の店がお客様にとってどんな店なのか、見えてこないと、
自分の独りよがりの店であって、お客様にとって何の魅力もない店になってしまう。
そんなことをよく言ってきたが、
この人のように、色々な人になりきって、
こんなサービスが有ったら、こんな商品があったら、こんな店があったらと
どんどんそのビジネスを魅力と可能性を表現できる人にははじめて会った。
「ユーザー視点」を自分の目として自由自在に持てるというのは
この人、すごい能力を持った人である。
こんな自由自在なユーザー視点を持てたら、
快洗隊ももっともっと大きな可能性を持ったものに進化させられるだろう。
今回のお話でも、その大きなヒントをいくつもいただいた。
勉強になった。
私達は、研修とかトレーニングを通じて
車をきれいにする技術とかビジネスとしての考え方を
たくさんの人にお伝えしている。
“伝える”“教える”ということは、
伝えるべきことを喋るという行為でも、
見せるという行為ではない。
言葉として喋ればいい、見せればいいというものではない。
たとえば、
それが技術を伝えるということならば、
相手がその技術をきちんと身につけ、を実践できるようになることである。
技術を伝えるということは、その技術を相手が自分のものにするということ。
たとえば、
ある知識を伝えるということは、
その知識を文章とか写真で表現して、それを見せれば済むものではない。
相手がキチンとそれを理解して、自分のものにしてこそ“伝えた”ことになる。
そのためにはどうすればいいのか。
教える方がその人の視点に立って、
何が分かっていて、何が分からないのか。
何が出来て、何が出来ないのか。
どうして分からないのか、出来ないのか。
その人の気持ちになって、それを感じ取りながら、教え、伝えていけばいいのである。
自分の言ったこと、やったこと、書いたことが、
相手の気持ちに立って、
相手にどう伝わったのか、
あるいは、どう理解されたのか、
その度に、ビンビンと感じながら、それに反応し、教え、伝える。
教えられる人に自分もなりきって、その自分に教えていく。
そういう意味では、ユーザー視点に立って考えることという “商売”と同じである。
相手の気持ちになれること。
相手の視点でものが見えること。
相手の気持ちがスッと自分に伝わってくること。
これはある種の才能と言うかなんというか。
訓練で出来上がってしまうものなのか。
ある種の集中をもつと、
それが自然と出来てしまうようになってしまった。
多分、このコラムを6年前に書き始めてしばらく経ってからだと思う。
ここに書いた文章は、たくさんの方に読んでいただいていて、
色々な立場で色々な違った感性と、違った価値観を持った方に読まれるわけで、
書いた事によっては
まさかと思うような反応をいただくこともある。
そんな経験が積み重なって、
一つの文章を書くたびに、この文章を読んだ人がどんな風に思うのか
感じるのか、自然に感じながら書くようになった。
もう、このコラムのカウンターだけでも1568を数え、
他にもあれやこれや書いているので、多分2,000以上の話を書いていて、
そんな習慣が体に沁み込んでしまったのだろう。
だから、
文章を書いているときだけでなく、話をしている時も、
言葉を出すたびに相手の気持ちを感じるようになってしまった。
ちょっと違うな。
相手の気持ちを感じるのではなくて、
読んでいる、あるいは言われている相手を自分に置き換えて、
その置き換えられた自分がどのように感じるかを、一瞬で感じとると言った方が正確だろうか。
まったく感じないときもあれば、
ずいぶん時間が経ってから感じる時もある
相手の気持ちを感じるというと“やさしさ”のように聞こえるが、
“やさしさ”ともちょっと違う。
その相手がお客様であれば、ユーザー視点に立つということにもなる。
私は、その点では少しは出来るようになっている。
しかし、
知らぬ間に、心が傷つきながらも、頑張って、多くの事に貢献していた者がいて、
その苦しみに初めて気が付いた時、
自分の鈍感さに、恥じ入り、
申し訳なくて、自分の非能ぶりを憎むこともある。
あるいは、
目の前にいる人たちとのやり取りに気が行ってしまい、
私達を支えてくれている多くの人たちの事を忘れて、
目の前の議論に熱中してしまう時もある。
みんなの気持ちになれるどころか、
存在すら忘れてしまう事だってあるのだ。
ふと、それに気が付いた時、
自分の頭がどうかなってしまったかと滅入り、言葉が出なくなってしまうこともある。
まだまだである。
まだぜんぜんダメである。わたしは。