2005年06月23日(木曜日)
1197.日本の中の中国人
ある中国人の話。
北京に快洗隊を作りたいという話がある。
また、北京、天津、大連、瀋陽、ハルピンなど中国北部において、
D物産という会社が、キーパー製品の販売も同時に行なう。
その打ち合わせと、その会社のオーナーAさんとB部長に挨拶をするために、
愛知県に近いC県の県庁所在地の市に来た。
話は複雑である。
Aさんは、C県で開業しているお医者さんである。
だからA先生と言うべきである。
その病院の中に、B部長が所属しているD物産がある。
A先生はD物産の社長であり、オーナーである。
A先生の病院は、個人の病院としては異例に大きく立派であった。
お話を聞くと、
A先生は名医として超有名なお医者さんであって、
日本の学会の副会長さんでもあるという。
国籍は中国人であるが、日本で生まれて、日本で育ち、日本人そのものであり、
だから、中国語はまったく話せない。
A先生と、B部長の関係を聞いた。
中国でのビジネスの話は不透明な部分が多く、
相手に出来るだけのことを聞いて、出来るだけ理解しないとうまく行かないので、
多少失礼かと思っても、出来るだけ詳しく聞くようにしている。
B部長も中国国籍である。
留学生として日本に来てから約20年弱、
卒業後、日本の企業に就職をして貿易の仕事を中心に行なってきた。
今は、日本人の女性と結婚をして日本に定住している。
昔、B部長が日本に留学する時、
日本のある有名なお医者さんE先生(A先生ではない)に、
身元保証人になってもらった。
そのE先生が中国人であるかどうかは聞くのを忘れたが、
Bさんの一番上のお兄さんが中国で医者をやっていて、
そのお兄さんとE先生が友達であった。
そのよしみで、B部長の身元引受人をやってくれたのだそうだ。
そのE先生は、もうお亡くなりになっている。
E先生とA先生は、同じ大学で親友であったそうだが、
BさんとA先生の縁はまだその後である。
B部長は、留学生時代に、留学先のC県立大学の留学生会の会長をやっていた。
E先生の奥さんが非常に社交的な方で、
NPO活動で、中国からの留学生の面倒をよく見ていたのだそうだ。
その関係もあって、BさんとE奥さんは、E先生が亡くなった後も親交が深かった。
A先生は中国国籍ではあるが、日本育ちだったので中国語がまったく話せない。
ある時、A先生は中国語を習いたいと思って、
親友であったE先生の奥さんであり、
たくさんの中国人留学生の面倒を見ていたE奥さんに、
中国語の家庭教師の紹介を依頼した。
そこで、E奥さんが推薦し、紹介したのがB部長であったのだ。
A先生とB部長が、ここで知り合いになり、親交が深くなった。
やっとここでA先生とB部長が繋がったのだ。(あ~~疲れた。)
A先生は、B部長の真面目な人間性にほれ込んで、
B部長を自分の会社であるD物産に引き抜いたのであろう。
A先生の日本での人脈と、中国で作り上げた人脈が、
D物産を舞台に大きなビジネスを生み出し、
B部長はA先生が見込んだ人だけあって、その舞台で大活躍であった。
今年の初め、幕張でのトレードショー「IAAE」に出展したアイ・タックのブースに
B部長が訪れた。
その時ブースに居た上海事務所の廣瀬所長とB部長が話をして、意気投合。
その後、B部長が上海を訪れた時に、廣瀬署長を訪ね、
上海の快洗隊を見学した。
B部長は、快洗隊をすっかり気に入って、
その後も、
北京のD物産の事務所のスタッフと共に、何度か上海の快洗隊を訪れた。
「北京に快洗隊を造ろう。」
B部長は、そう固く決心して、
C県にあるA先生の病院内にあるD物産に戻った。
そして、私と快洗隊FC本部の酒部部長が、
C県にあるA先生のA病院を訪れ、D物産のB部長と共に、
初めてA先生と面会した。
“北京に快洗隊を造るために。”
メチャクチャややこしい話だ。
日本で生まれた中国の人が、
日本で、日本の多くの人々を難病から救い、
自分のルーツである中国における多くの人脈を通じて、
貿易という交流を持って、
日本で得た縁を持ったB部長という中国の人を通じて
中国・上海での快洗隊を見て、
北京に快洗隊を作る決心がなされた。
その計画を、日本のA病院を本拠としたD物産で、日本の私たちと打ち合わせをした。
ますますややこしい話である。
人とは縁である。
縁が縁を呼び、縁が縁をつくる。
日本の中の中国語を話せない中国人A先生が紡いだ不思議な縁の輪であった。