2005年01月13日(木曜日)
1098.締切りは夜明け迄
今朝、午前3時50分に目が覚めた。
昨夜寝たのは午後11時半、だから4時間40分寝たことになる。
このところ睡眠時間が伸びている私にとっては、少し寝不足である。
キーパータイムスの原稿を、どうしても夜明け前に書き上げなければならなかった。
編集を担当しているグリットの吉田君からもらったタイムリミットが、
「ぎりぎり、今日の夜明けまで」だったのだ。
今年最初のキーパータイムスは、
出来るだけ年末の快洗隊のことなどを生々しくお伝えしたかったので、
何とか頑張って、一月十五日までに発行したかったが、
やっぱり遅れに遅れて
一月二十日ぐらいに皆さんのお手元に届くのが精一杯になってしまった。
遅れる原因はいくつかあるが、
発効日から逆算したスケジュールの一つ一つに対して、
私も含めて、期日の遵守意識が足りないのであろう。
このような会社の内部で作成する機関紙のようなものは、
それぞれが自分の仕事を持ちながら、その傍ら原稿などを書くことになるので、
どうしても、このようなことになりがちであって、
キチンと期日を守って発行して行こうと思ったら、
外部の業者さんに委託する方が良いということが一般的になっている。
いわゆるアウトソーシングってやつだ。
自前で発行していると、私自身もたくさんの原稿を書くことになるので、
なかなか大変であり、
何度もアウトソーシングを考えたが、
やはり直接に現場に関わっている者が書いた物でないと、
キーパータイムスの本領である情報の生々しさ、
そして、リアル感が出ないような気がして、未だに、自分たちで作っている。
これからもずっと、そうして行きたいとも思っている。
私自身、スケジュールを主体的に立てて、
それを実行していくことは習慣として持っており、
原稿提出の締め切りだって、いい加減にはしていないつもりなのだが、
いつもタイムリミットぎりぎりになってしまう。
何をどう書くのか、いつも頭の中にあって考えてはいるのだが
切羽詰ってこないと、なかなかまとまってこないのだ。
作家が締め切りぎりぎりになって、担当者に張り付かれて、
徹夜で原稿を書いている場面がよくあるが、
「バッカだなぁ、もっと前もって書き始めておけば、あんなに苦しまなくてもいいのに。
計画性がないんだなぁ」
なんて思っていたが、
いざ、自分が書くようになると、
ぎりぎりまで切羽詰らないと、
本当に、いいアイデアが出てこないこともある事が解る。
しかしそれにしても、今朝はしんどかった。
昨日から東京に出かけたので、
原稿は新幹線の中で書けば十分に間に合うつもりだった。
名古屋から東京は「のぞみ」で、約1時間と40分ぐらい。
原稿4~5枚は書ける時間だ。
私は、電車の中とか飛行機の中は集中して書くことが出来る。
振動とか揺れは全く気にならないし、乗り物酔いにもならない。
ところが、今回は出発の時間が少しずつ遅れて“お昼”にかかってしまったのだ。
お昼は当然、駅弁を食べなければならない。
腹が減っていては良い仕事が出来ないので、これは食べなければいけないのだ。(^^♪
この日は名古屋名物?「鳥わっぱ」
味付けご飯の上に乗っている“かしわの時雨煮”がうまい。
・・・・いずれにしても、駅弁を食べた。
ここで20分のロス。
いざ原稿を書き始めたら、猛烈に眠い。
昼ごはんを食べた後はしばらくすごく眠くなるのだ。
それでも目をこじ開けて原稿と格闘する。
今回の原稿は「表計算」が2枚付く。
表の作るのは、つい余分に罫線をいじったり、データを探したりで時間がかかる。
それでも何とか作り上げて、文章に移ろうとした時、
何をやったのか解らないが、ファイルを保存をする時に「表」を消してしまった。
「あちゃ~、消しちゃったっ~」
新幹線の中にいることを忘れて、思わず大きな声が出る。
冷ややかな乗客の視線を感じて、
われにかえり窓の外を見れば、もう富士を過ぎたところだった。
東京に着くまでに「表」を作り直すのが精一杯。
東京駅に着いて、吉田君に電話をする。
「あのさ~、原稿を新幹線で書いたんだけど、うっかり保存する時消しちゃってさぁ~」
なんか、思いっきりわざとらしい、よく有る言い訳みたいで、情けない。
それで、もうぎりぎりのタイムリミット「夜明けまで」ということになったのだ。
東京に来たのはオートバックスセブンさんの賀詞交換会に出席するため。
賀詞交換会は「立食パーティー」と相場が決まっている。
私は足の都合で、長時間立っていることが非常につらいので、
今まで、色々な賀詞交換会にお誘いを受けたが、出席したことはほとんどなかった。
しかし今回は、日本一のドライブショップ本部の賀詞交換会に
どんな人が来るのか、すごく興味があったので
足が痛むことを覚悟して出席することにしたのだ。
オートバックスセブンの賀詞交換会は、それは華やかであった。
日本トップクラスのホテルともいえる「ホテルニューオオタニ」の
一番広いバンケットルーム「芙蓉の間」に、
一目、一千人ぐらいかと思うほどの人がぎっしりと詰める。
有名な人も何人かいた。
しかし、立ったままウィスキーの水割りを飲んだり、
皿に盛ったオードブルを食べたりするのは非常につらい。
脇にある椅子にちょっと座るが、知っている人がいればやっぱり立ち話となる。
長い長い2時間であった。
会は終わったが、
セブンの役員の方が「ちょっと残ってて、相談があるから」と言われて、
こういう風に声を掛けられるとうれしいものだ。
残って、ホテルの喫茶店で一時間半ほど打ち合わせ。
話もありがたかったが、
喫茶で椅子に座れたのが最高に幸せであった。
ホテルニューオータニから、電車で移動する。
「武蔵浦和」に行くのだ。
ホテルの最寄の駅・地下鉄「永田町」まで歩く。
ホテルを出たらすぐに地上の入り口があったのでホッとしたが、
そこから歩いて歩いて、階段を何度も降りて、登って、また降りて、
1キロぐらい歩いたような気がする。(そんなにあるわけがない)
地下鉄「永田町」から「渋谷」に、たった3駅だが座る席はない。
到着したら、地下鉄「渋谷駅」から、JR「渋谷駅」に歩く。
これまた結構な距離がある。
JR「渋谷駅」に到着しても、埼京線のホームに行くのにそこそこ距離があって、
足のほうはそろそろ限界だ。
時間はそろそろ5時半を過ぎ、
通勤ラッシュのピークを迎えるころだ。
悪い予感がする。
渋谷駅埼京線のホームに入ってきた列車は、
やはり溢れんばかりの通勤客でぎっしりであった。
恐怖の満員列車。人の波に任せて、満員列車の中に流れ込んでいく。
もちろん座れるなんてことは絶対にない。
荷物置きのパイプにつかまって必死に立っているのが精一杯だ、
「渋谷」から「武蔵浦和」まではピッタシ30分。
ただパイプにつかまり、
列車が揺れるたびに車内の人が右に左と波打つのに身を任せる。
私の横には、リュックを胸の前にしょった女の人がいる。
痴漢に胸を触られないように、リュックを前にしょっているのだろう。
そうだ。
こんな満員電車の中では、痴漢の冤罪が続発しているそうだ。
満員電車の中で、
何もしていないのに、突然、
なんかを勘違いした女に
「この人、痴漢で~~す。」と、手をとられて、
鉄道警察に突き出され。何ヶ月も留置の挙句、
社会的信用が破壊されて、一生を大きく変えられてしまうという“あれ”だ。
「冗談じゃない」
そんな風に、やってもいないことであらぬ罪を被せられて、
警察に突き出されるなんて真っ平である。
ひょっとしてそんな悲劇的なことになったら、
会社のみんなは、世間の人たちは私の無罪を信用してくれるだろうか?
いや、面白がって
「谷ならやるかも知れんな」ぐらいのことをきっと言うであろう。
全くとんでもないことである。
ふとっ気がつくと、
私の背中に、若い女性がぴったりと押し付けられている。
体温が伝わってくるぐらいビッタリとくっついている。
「おやおや・・」
背中に押し付けられているのは、私のせいではない。
それに、私の両手は頭上の荷物置きのパイプをしっかりと握っている。
冤罪の可能性はない。
しかし、窓に写った背中の彼女の顔を見たら、
何かすごく怒ったように顔をしている。
そして、ひょんな拍子に、窓ガラスの彼女と目線が合ってしまった。
怒っている目の表情だ。
ひょっとして
「この人、痴漢で~す。私の胸に背中を押し付けていま~す。」
なんて叫んだらどうしよう。
私は急に恐怖を感じた。
そんなことはお構いなしに電車はどんどん進み、
車内も若干空いてきて、
背中の彼女は私の背中から解放されて、隣に来てつり革にぶら下がっている。
あ~良かった。
どうも私に怒っている様子ではない。
そんな馬鹿なことを考えていたので、
限界を超して悲鳴を上げているはずの足の痛みも忘れていた。
我ながらまったく情けない話である。
武蔵浦和に着いたのは午後6時半を大きく回っていた。
早速目的の人に電話をする。
目的の人とは、藤本忍さんといって
20年前に、私を独立させてくれた大恩人である。
石油元売の方で、今は関連会社の常務を務めておられる。
3年ぶりの再会で、この日は洗車について相談に乗って欲しいという事でもあった。
早速近くのすし屋さんに連れて行ってくれて、
いろいろと話を始める。
洗車の話もする。
しかし、そういう仕事の話よりも、つい、昔話に花が咲いたりして、
一向に仕事の話が続かない。
私もついつい、昔話が楽しくて、
結局そんな話ばっかりしていて、すっかりべろべろに酔ってしまった。
体の芯まで疲れているときは、いっそう酒がうまく感じて、
ついピッチが早くなってしまうのだ。
そして、酔うのも早い。
すし屋さんに9時過ぎまでいて、今度はホテルのバーに席を移して、
結局、11時過ぎまで飲んだ。
※私の大恩人、藤本さん
藤本さんの話が面白くて、私はほとんど聞き役。
昔のいっぱいの人との、いっぱいの出来事を話して、この日は終わってしまった。
仕事の話は、また“いつか”である。
※ホテルからの浦和の夜景は、名古屋の下町方面の夜景に似ていた。
ただただ平べったく、それが遥か遠くまで続いている。
大きな平野に有る街の夜景である。
本当は、この日は泊まるつもりではなかった。
しかし、一つ一つのスケジュールが少しずつ遅れていって、
やっぱり泊まることになった。
原稿を書かなくてはならない!
しかし、もうすぐ日付が変わる時間になって、私の頭は完全に酔っている。
明日の朝、早く起きて書こう。
そして、頑張って起きたのが
朝4時にセットした目覚まし時計より10分早く、自分で目が覚めたのだった。
外はまだ真っ暗であるが、
こんな時間では外はほぼ完璧に静かであって、
眠たいはずなのに、妙に集中出来たのだ。
午前4時ぐらいから書き始めて、書き終わったのは午前6時過ぎ。
それからメールチェックなどをザッとやって、
吉田君にメールで原稿を送ったのが午前6時半過ぎ。
外は朝焼けで赤くなり、ゆっくりと明けつつあった。
「あれっ、富士山だ!」
夜の間気が付かなかったが、
ホテルの窓から、遠くに富士山がくっきりと見える。
さては、今日は又すごくいいことがあるに違いない。
こうして今回のキーパータイムスの原稿も、
「夜明けまでっ」と
ぎりぎり切羽詰った締め切りに、悲壮なゴールをしたのである。
東京は、歩いたり、立っていなければならないことが多くて、
私には、全く苦手な場所である。
しかし、よく晴れ上がった時
不意に富士山が見えることがあるのは、実にうらやましいことだ。
夜が明けて、
午後8時過ぎ、
この間降った雪が、富士山全体をうっすらと白くしているのが解る。