谷 好通コラム

2004年07月08日(木曜日)

987話 有ること≠幸せ

考えて見れば贅沢なことである。
私は今、ダイエットと称し、食べることをグッと我慢しているのだ。

 

地球上には食べる物がなくて、飢死する人が何百万人も何千人もいるというのに、
健康のために、あるいはレースという遊びの体力づくりのために、
食べる物が山ほどあるのにグッと我慢している。

 

私たちは日本に生活していて
食べることなどに困ることなく、当たり前のように暮らしている。
ハンバーガーはMACの方がうまい、いやMosの方がうまいなどと
飢えの国の人が聞いたら泣いてしまうようなことを平気で言っている

 

私も、ダイエットのトレーナー役の今井さんから
「カロリーの高い外食は1/3を残す習慣をつけてください。」と
(これがなかなか出来ないのだ)
つまり、せっかくの食べ物を無駄にする習慣をつけるように指導を受けているのだ。
別に今井さんの指導にケチをつけているわけではない。
食べ物が豊富にある環境の中では、食べ物が有る事が当たり前になっていて
食べ物が無い環境の人から見れば
考えられないようなことを平気でやっているという事。

 

人間って、けっこういい加減なもの

 

 

たとえば、
北朝鮮で
穀物が不作で食べる物が無く、
ガリガリに痩せ細った瀕死の子供の映像が写され、
「こんな危機的状況なのに、金正日主席は毎日贅沢な食事をしている。けしからん」と
ワイドショーの司会が怒って見せている。
見ているこっちも、
「なんちゅーやっちゃ、金正日はとんでもない奴だ。」と思う。
やがてコマーシャルが入って、
次は、「グルメコーナー」
かっこいいオネエさんとか、重度の肥満男とかが
新鮮な材料をふんだんに使い職人が凝りに凝った自慢の料理をジックリと食べ
過度の表情とアクションで、それが如何に旨いかをアピールする。
それを見ている視聴者も「うっまそ~~」と思うわけだ。

 

さっきの“痩せ細った子供”の事は、もうすっかり忘れている。
お菓子食べながら
飢えた子供につい先ほどまで同情して、金正日をひどい奴とののしりながら
次の瞬間、グルメ番組を見て
ツバを飲み込む。
自分たちもそう違った者ではない。

 

人は飢えた時には、食べられる物があれば何でもいいから、食べたい。
と思うが、
いざ食べられるようになると、
うまい物が食べたいと思うようになる。

 

うまい物が食べられるようになると、
食べ過ぎによって太ってしまう事が悩みになり、
健康のために食べるのを我慢するようになる。

 

無ければ、有ればどんなに幸せかと思うのだが、
有れば有ったで、それが当たり前になって、
有っても、それ自体が幸せでも何でもなくなってしまう。

 

何が幸せななんだろうか。

 

たとえば
亭主が稼いでくる給料が“少ない”と文句を言う女房がいるとする。
亭主は金を稼いでくるのが当たり前であると思っているのだろう。
女房からすれば不満なその稼ぎに、
女房は亭主に感謝することもないし、
亭主も、家族の感謝というモチベーションを失い、仕事に意欲を持てない。
仕事に意欲を持っていない彼に良い働きなど出来るわけが無い。
だから、良い稼ぎなを与えらることは無い。
たとえば
その亭主が死んで、その稼ぎがなくなった時
亭主の稼ぎがあったことの有り難さが分かるのであろうか、
あるいは、早く死んでしまった亭主を、甲斐性なしとののしるのであろうか。
いずれにしても、その女房は幸せではない。
亭主も幸せではない。

 

それが不満な量であろうとなかろうと、
有ること自体が有り難いと思い、感謝することができれば
こんな不幸はないはずなのに。

 

有ると、それが当たり前になって、
有る事自体に感謝することを忘れてしまうものだ。

 

 

たとえば
十二分に稼いでくる亭主がいるとする。
亭主は女房にその稼ぎに見合った物を食べさせるように求めるし、
女房が綺麗でいることや、
住まいが十分に快適であることを要求する。
女房にはそれが出来ない。
自分を綺麗にしていることも、十分に快適な住まいを作ることも、
ある程度お金がなければ出来ないことだが
お金があれば出来ることでもない。
それなりの努力も必要なのだ。
それが出来ないということは、つまり、
稼ぎを使い、その稼ぎに報いる事が出来ないことにもなってしまう。

 

普通の稼ぎの亭主ならばしなくても良い努力を
稼ぎ過ぎる亭主を持った事で、彼女はいらぬ努力までしなければならないわけで
その努力に甲斐を見出だせない彼女は、
亭主が過度に稼いでくること自体に不幸を感じ、感謝を忘れてしまう。
こんな彼女はやはり不幸なのであろう。
人より稼いでも感謝されない亭主も、きっと不幸なのであろう。

 

有る事に慣れると、有る事自体に感謝するどころか
有る事によって生じる負荷の方に不幸を持ってしまうものだ。

 

 

持っていないという事は、
持つ喜びを留保していることであって、
決して不幸なことではない。

 

持ってしまうこと、つまり有る事とは、
手に入れる喜びを失ってしまったという事でもあって
決して幸福なことでもない。

 

 

ならば
持つこと自体が幸せを作り出してくれるのか。

 

かっこいい高価な車を買って、
それに乗っている自分が、他人から見てかっこいいだろうと、自分が思っても、
外から見れば、乗っている人なんてどっちでも良いし、
せいぜい妬みをもらうだけ。
妬みとは、相手に対する憎しみとほとんど同じで、
憎しみをもらうことが幸せとは言えまい。

 

値段が高いことに価値があるブランド物を持っても、
それを持っている人自体には、せいぜい妬みが向けられるだけであって、
あるいは、軽薄を見透かされるだけであって、
やはり幸せであるとは思えない。

 

“物”を持つこと自体から与えられる幸せは無く、
持っているという自己満足だけで、ある意味では“妬み”の裏返しであり
それは幸せの類にはならない。

 

となると
無い事は、不幸なことではなく、
有る事が、幸せなことでもない。

 

無いこと≠不幸
有ること≠幸福

 

一体何が幸せなんだろう。
“幸せ”っていうのは、
有るか、無いか、
持っているか、持っていないかは

 

ひょっとしたら関係ないんだな。

 

 

 

最終の新幹線で東京から名古屋に帰る。
少しからだが熱っぽい。

 

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
    読めば読むほど元気になること間違いなし。・・・の、はず。

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