2003年09月04日(木曜日)
790話 人の不幸を嬉ぶ
よくある話で
信号のある交差点で、黄色信号どころか赤信号で突っ込んでくる車
明らかな信号無視であり
特に右折車が交差点の真ん中にいるときなど
右折車が出てきて衝突する可能性が高く
非常に危険な行為である
そんな信号無視は、本人にとって“ひと信号得をした”のであろうが
その危険性との代償としては、あまりにも卑小なる“得”であり
馬鹿な行為と言わざるを得ない
逆に、自分が右折車として
交差点で信号が変わるのを待っているときには
信号が黄色になったとたんに出ようとして
信号無視して直進してくる車には
「危ない奴だ」と、ブツブツ文句を言う
自分が信号無視をすることは、ひと信号、得をすることであり
人が信号無視をすることは
悪いことであって危ないことである、ということか
自分が人にするのはいいが
人が自分にすることは許せない
そんな事がよくある
なんと自分勝手なものか
もっと絶望的な自分勝手
クラクションを鳴らされて
頭にきて、殺人にまでなってしまった事件があった
そんなことで人を殺めるなんて、人間のクズである
思うに
きっとその犯人は
自分はいつも、けたたましくクラクションを鳴らしていたに違いない
この手の人間は
他人(ひと)に対して無用にクラクションを鳴らすなどして
人がびっくりしたり、怯えたりする事が嬉しかったのであろう
人が不幸になることが嬉しいのである
そして今度は
自分がクラクションを鳴ら“された”とき
鳴らした他人が、自分が驚いたことを
自分と同じように面白がって喜んでいると勘違いして
そう思うと、今度はすごく腹が立ったのだと思う
他人が不幸になったことを自分が喜んだ分だけ
自分が反対の場になったとき、相手も喜んでいると感じて
猛烈に腹が立ったのだ、きっと
自分が不幸な人は
人が不幸であると嬉しい
自分の行為で、人を不幸に出来ると、もっと嬉しい
逆に人から不幸にされると
人の不幸が嬉しかったその分だけ、逆にものすごく腹が立つ
そんなものなのだろう
悲しい循環である
人の不幸が嬉しい人は、自分の不幸が人の喜びであるとも錯覚し
自分の不幸を喜んだであろうその人を絶対に不幸にしてやろうと思う
いわゆる“恨み”である
もっと姑息な不幸
自分に損がないように
出来るだけ、隠れて
人が困ることを、わざわざやって
面白がる愉快犯
それは、とても不幸な人間だ
自分が不幸なので
人を不幸にすることで、自分の不幸を補填する代償行為
決して幸せな人がやることではない
その反対に
ハッピーな循環もある
人の幸せを願うこと
人の幸せを願っている人が、誰かを幸せにして
その人から感謝された
感謝されることは、人にとって最高の幸せ
人が幸せになって、自分が幸せになる
自分が幸せになって
幸せにしてくれたその人に感謝した
そうしたら、その人も幸せになって
その幸せが自分も嬉しく、もっと幸せになった
幸せの循環
不幸の循環
その、どちらがいいか
私は幸せになりたい
出来うるならば、私は幸せになりたい
だから、みんなが幸せであったら、すごくいいなぁと思う
そして、みんなが幸せだったら
私もきっと幸せになれそうな気がする
そんな気がする