2003年01月27日(月曜日)
629話 善と善との戦争
昨日、非常に興味あるお話を聞いた
戦争とは
“善”と“悪”との闘いではなくて
“善”と“善”との争いであるということ
お互いが
自分が善であり
お互いの相手が悪であると
そう決め付けるところに戦争が生まれる
今にもアメリカとイラクとの戦争が始まる
アメリカのカウボーイ“ブッシュ”は
自らを「十字軍」と称し
相手を「悪の枢軸」であるとして
これは正義の闘いであると、国民を鼓舞している
イラクの独裁者“フセイン”は
アメリカとの戦争をイスラム的「ジハード(聖戦)」と称し
全国民が玉砕しても
正義の闘いを戦うべしと、国民に強制している
同じくイスラムのアフガニスタンは
一昨年の、ニューヨーク国際貿易ビルに対する自爆テロを
殉教者による正義の闘いであるとし
アメリカは
歴史上初めての本土への攻撃を、「宣戦布告」であると位置づけ
正義の報復で
アフガニスタンを壊滅的に破壊した
今、北朝鮮では
日本人とアメリカ人が残虐な人種であると決め付けるような
勧善懲悪のテレビ番組を流し続け
憎しみを掻き立てるよな
プロパガンダを繰り返している
経済的にはとっくの昔に破綻しきっていて
餓死によって
大量の自国民を殺してしまっている事を
憎しむべき敵、日本・アメリカのせいだと責任転嫁し
「我々は本気で正義の戦争をやる用意がある」と、日本とアメリカを恫喝している
戦争の主催者である権力者は
自らが“善”であることを、戦争の前提にする
お互いにだ
そして、相手の国を邪悪な民族であり
あるいは異教徒である事をすなわち邪悪であるとし
侵略者であると決めつけ
自国は正義であり
その相手国による“被害者”であると煽る
かつて昔
日本も当時の権力者は、この国を「神の国」として
聖戦に突っ走った
自らは“善”であり
相手は悪であるとしたとき戦争が始まる
その両者を俯瞰してみれば
“善”と“善”との戦争であるということになる
「平和とは、相手の事を認め、許し、受け入れること」
それが違う人種・民族であっても
違う文化のものであっても
違う宗教のものであったとしても
それはそれとして
違うだけであり
優劣があるものでもなく
その事そのものに善悪があるものでなくて
ただ単に違うだけであり
憎むべきでもなく、戦うべき動機になるものではない
「平和とは、相手の事を認め、許し、受け入れること」
私はこの話に、大変納得してしまった
ここからは私の話
はるか大昔
ヨーロッパ諸国は
自らを“優越した民族”とし、自らの宗教こそ“聖なる教え”として
世界を蹂躙した
実は、たまたま圧倒的な武器の発達を得ていただけの
ヨーロッパ諸国は
南米のあらゆる民族と
北米のインディアンたちと
オーストラリアのアボリジニ
アフリカの無数の民族
アジアの最も歴史ある民族たちを
劣った人種
劣悪な民族
邪悪な異教として
徹底的にその文明を破壊し
人としての尊厳を侮蔑した
何千万人ものアフリカ人を奴隷とし、人としての尊厳を奪いきり
北米、オーストラリアにおいては土地ごと、国ごと乗っ取った
アジアにおいては、日本を除いたすべての国を植民地として搾取しきり
麻薬付けにして
人格をも奪った
人に、あらゆる人に
優劣はない
あらゆる生き物にも優劣はなく
自然そのものに等しい尊厳がある
しかし、長い年月を経て
陵辱され続けた圧倒的多数の民族は
ある場合には、自らの当たり前の尊厳を取り戻すための
凄惨な闘いを経て
また、ある場合には
自らを陵辱する者すらも「許し、受け入れ、認める」
つまり、“不戦の闘い”を経て
自らの尊厳を取り戻し
ほとんどの世界において、
自治と、自由を取り戻し、平和を勝ち得ている
「平和とは、相手の事を認め、許し、受け入れること」
わたしは、これを素晴らしい考えだと思った
ただ、圧倒的に強い国
あるいは、自らだけが“善”であると主張する国
その彼らがお互いに
自らを善とし、相手を悪としている限り
戦争が根絶されることはないのであろうか
話はグッと変わって下界の話
今日の写真
「や台寿司」
名古屋で急成長している外食産業の一つ、3年で五十数軒できた
内装屋さんが始めたチェーン店で
レトロ調の店作りが売りだ
いつも、私はこの手のチェーン店で飯を食べる時
つい、あら捜しをしてしまうのだが
「相手の事を認め、許し、受け入れる」話を聞いたからか
すっかり売れ入れる気持ちで食べたら
すごくおいしく感じた
人の話でこんなに変わるものか
しかし、“椅子が板”だったので、尻が痛くてしかたなかったので
それだけは、どうしても受け入れ難かったのはご愛嬌である