2023年08月15日(火曜日)
08.15. 8月15日、終戦記念日に思う。
8月15日は、
太平洋戦争を含む第二次世界大戦の中で、
日本の政府が、日本が負けたことを認める無条件降伏を受諾した日。
それによって日本国民にとって戦争が終った日。
だから、
日本を支配していた政治・官僚・軍人など権力者にとっては「敗戦」であるが、
家族の集まりである日本国民にとっては
やはり、8月15日は「終戦記念日」だったのではないでしょうか。
ネットで関連の記事を探していくと色々なことが載っている。
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この戦争で日本軍の死者は、
軍人・軍属を合わせて約230万人。(民間人は約80万人)
ソ連は1360万人、ドイツは325万人と多数の死者が出たが、
日本軍の死の内実は欧州戦線とは大きく異なる。
死者の9割は、ガダルカナル島敗走の1944年以降に絞られ、
さらにその死の半数ほどが病死、とくに餓死が占めていた。とある。
また別の記事によっては、
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「年次別の戦死者数を公表している岩手県のデータなどから推計すると、
軍人・軍属の87.6%は1944年1月以降に亡くなっていました。
問題はその死に方です。
戦争ですから、多くの人は戦闘で命を落としたと考えるでしょう。
でも、日本軍は1944年以降、戦病死者が多く、
ある中国の連隊の史料では戦病死者が戦没者に占める割合は73.5%にもなり、
実際に全戦没者で見れば、この数字より多い可能性が高いです。
その戦病死の中身も、栄養失調による餓死、
あるいは栄養失調の果てにマラリアに感染というケースが多い。
餓死の比率は61%や37%などの説があり、確定はしていません。
また、別の資料には
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(一九四四年)四月ごろから急に栄養失調症が増えて、
栄養失調による死者、すなわち餓死者が出始めた。
マラリアにかかると四〇度の高熱が出てそれが一週間ぐらいつづく。
それで体力が弱まったところへ食糧がなく、極度の栄養失調に陥って、
その後は、薬も食事も、ぜんぜん受け付けない状態になって死んでゆく──
それが典型的な餓死のコースだった>
(『ソロモンの陸戦隊 佐世保鎮守府第六特別陸戦隊戦記』)
死んだ日本兵は、
戦って死んだのではなく、その多くは”餓死”であったことは一層悲しい。
米軍の爆撃(原爆を含む)で死んだ民間人の数より、
南洋に島々で苦しみ抜いた挙句惨めに餓死した兵隊の数の方が多かったとは、
より惨めで、悲しく、悲惨極まりなく
そんな事態に陥れたエリート集団である参謀などの軍指導部が憎い。
彼らエリート達は、
現場をまともに見ることもなく、
戦略的な自分の保身と面子の為に、
残された兵隊たちに「敵に投降して生きる。」許可を与えればいいだけだったのに、
無駄な行軍を続けさせ
百万人を超える同胞の悲惨な餓死者を作り出したのは、
これこそまさしく戦争犯罪と言えるのではないだろうか。
飢え死にするしかなかった兵隊たちは、
なぜ逃げて、捕虜となって生き延びることを選択しなかったのか。
飢え死にするしかない絶望的に勝てない状況の中で、
なお行軍を続け、飢え死にするしかなかったのか。
1941年1月に東条英機陸軍大臣が発した『戦陣訓』が大きな理由です。
それは『生きて虜囚の辱めを受けず』と
捕虜となることを固く禁じていたのです。
その為に、追い詰められた場面で
捕虜になることを潔しとせず自殺した兵隊の数は、
実は戦闘による戦死者より多いそうです。
もっと悲惨なのは
負傷して動けず、捨てる陣地に置いていくしかなくなったら、
彼らを捕虜にしない為に多くが「処理(薬で殺す)」されたのだそうです。
太平洋戦争は約130万人の戦死者と自殺者を出したと同時に
原爆を含む無差別殺人爆撃で
約80万人の民間人の死者を出し、
軍上層部の愚策・悪策で、約100万人あまりもの餓死者を出した。
国民にとって悲惨極まりない戦争であったようです。
だから、8月15日は、国民にとって「敗戦」ではなく、
「終戦」の方が相応しく思えるのです。
そんな話を読めば読むだけ、
平和な今の世の中で、
私たちはこの平和が、
当たり前にただ与えられているものではなく、
素晴らしいものとして、感謝しなければならないでしょう。
そして、1,000人もの仲間たちを有する事業を主催している者として、
いつ何時も、決して現場を忘れることなく、
決して、仲間を飢え死にさせてしまうような
大昔の軍指導部のような勘違いからの愚かさを持たないことだ。
この会社は約職の上から下まで、
その人間としての価値に寸分の上下の差もない、同じ人間であることを忘れない。