2002年06月05日(水曜日)
436話 変わらないもの
きのうのワールドカップで、サッカーの面白さに驚いた
そして、もう一つ驚いたことがある
試合前のセレモニーの時、選手の一人一人の顔を映していく場面があった
一人の選手を除いて全員、頭が黄色い!
赤い頭の選手までいた!
例外は小野選手で、彼は頭を剃っていたので黄色くはなかったが
坊主である
びっくりした
スポーツマンと言えば、スポーツ刈りと相場が決まっていたのは昔の話か
ほとんどの選手が、眉毛も形を整えて剃っているようだ(抜いている?)
世の中変わったものである
今日の昼飯の時に、大阪の河野君が解説をしてくれた
河野君いわく
「西洋人から見ると、東洋人の顔はみんな同じに見える
だから、外国のチームのスカウトに覚えてもらうように、髪を染めているんです。
オリンピックの時に、中田選手が黄色く髪を染めて
自分の存在をアピールし、見事スカウトされた。
それから、みんな髪を染めるようになったんですよ。」
「ほ~んとか?」と、私
いずれにしても
おじさんである私の目から見ると
それは異様であり、ヘンな風景でしかなかった
世の中変わった
三十年前
あるいは四十年ほど前
私がまだ子供のころ
世の中には、いろいろな商売があった
○文房具屋さん
(小・中学校、高校の門の前には、必ず文房具屋があった)
○お菓子屋さん
(町内にはいくつかの菓子屋があって、
貸本をやったり、お好み焼を焼いていたり、それぞれ特徴を出していた)
○日用雑貨屋さん
(トイレ紙、歯ブラシ、たわし、蚊取り線香、洗濯石鹸、などなど)
○薬屋さん
(それぞれ薬剤師がいて、ちょっとした軽い病気には医者代わりであった)
○酒屋さん
(店売りだけでなく、近所の家庭を御用聞きして回り、配達してくれた)
そして、公設市場がいくつかの町内にまたがってあり、その中には
○八百屋さん
○魚屋さん
○肉屋さん
(コロッケ、とんかつなどの揚げ立てを売っていて、これが特にうまかった)
○花屋さん
その他にも
○左官屋さん
○炭屋さん
○大工さん
○モータース
○自転車屋さん
○服屋さん
○電気屋さん
これらのお店は、商店街という形で集まっているところもあった
私が小さい時から思秋期にかけて育った町では
このような商店が街中に散らばり
お袋たちは、買い物カゴを持って、あちらの店、こちらの店と渡り歩いて
買い物をしたのだ
あのころの事を久しぶりに思い出したら
懐かしくなって
少しジンとくる
商店は、それぞれが個人経営者であり、家業であった
地域密着型どころか
完全に地域の中の一員である
同級生にも、商売をやっている家庭の子供がいっぱいいたのである
先ず、スーパーマーケットが出来て
その後、コンビニエンスストアーが出来て
それらのお店が、少しずつ無くなっていった
お菓子屋さんも、文房具屋さんも、日用雑貨屋さんも
今ではほとんど見ない
魚屋さんも、八百屋さんも、電気屋さんも、肉屋さんも
町から消えていった
小売の形態が、まったく変わってしまった
世の中が変わって
町の風景そのものが変わってしまった
・・・・・・
その中で
あまり変わらない店が一つ
ガソリンスタンド
お店そのものは、新築されて新しくなったが
その店で行われている商売は、不思議なほど昔と変わっていない
いわゆるガソリンスタンドの商売をやっている
特石法が解消され
ガソリンの口銭が激減し、個人営業の店が減った
消防が変わって
セルフスタンドが解禁された
でも
変わったのはそれぐらいで
商売そのものは、昔から不思議なほど変わっていない
世の中の小売の商売が、以前の姿を全く残さないほど変わってしまったのに
ガソリンスタンドは
まだ、あまり変わっていない
法律に守られていた商売は、ニューカマーの出現がなく
競争の原理が及びにくく
変わらなかったのであろう
この商売もいずれ
大きく変わるのだろう
それはやはり、避けられないことであろう
どう変わっていくのか
まだ分からない
誰が残るのか、誰が去るのか
しかし、言えることはひとつ
一般のユーザーに支持される形を作り上げる事が出来た人が残る
それは違いないこと
それがどんな形なのか
まだ分からない
必ずしも、大資本が残る、とは限らない
それも明白のことだ
一生懸命考えて行こう
今日は、泉北で仕事をした後
“難波”まで南海鉄道で出て、難波から近鉄の特急で名古屋に帰ってきた
約2時間の旅
難波から新大阪まで出て新幹線で帰るのと
時間的に変わらないと思って
そうしたのだ
今は、その近鉄の電車の中
近鉄での2時間は、山の中を走って行く、ゆったりとした旅であった
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