2003年01月17日(金曜日)
618話 判った時に終る
世の中、思いも寄らぬことだらけである
だから面白い
人生、面白いことの連続である
次から次へと新しい驚きがやってくるのだ
私が50年間に体験したことなど
世の中の1000分の1にも満たないに違いない
それが、今のこの時代のことだけに限っても、そうなのだから
時代をさかのぼる事が出来れば
またその数百倍、数千倍以上の未だ経験していないことで満ちており
ましてや、未だ来ぬ未来においては
もう想像すらし得ぬことで溢れ返っているのであろう
知らないことだらけ
経験していないことだらけ
その瞬間々々が常に新しい
自らが未だ知らないことが多い事を、知れば知るほど
自らに、溢れんばかりの可能性が残されているということ
人生の中で
ある時
「自分は知ってしまった。すべてを知ってしまった。」と、思った時があるとしたら
その時が、自らの可能性がすべて閉じてしまった時
“所詮、世の中は”とか、“結局、人生って”などと言い出したら
“自らの可能性の終わり”の知らせの警報が鳴っている時
人類は“学ぶ”ことによって
他の生物の中でも特異な進化を遂げた
“学ぶ”とは
自らに“未だ知らないことがある”ことを自認する事が前提で
“全て知ってしまった”と思った時は
“学ぶこと”が出来なくなってしまった時と、同じであるのだ
知らないこと、経験していないことがあり
自らが、未だ未熟であり
まだ、学ぶことが計り知れないほどあることを自覚し
好奇心の塊となって
見、聞き、知り、体験し、そして学ぶ
それが“新鮮”であるということ
自らのわずかな体験の範囲の中でしか思考が働かず
学ぶことを忘れ
頑強なまでの鎧兜で身を守り始めた時
干物のように縮み上がっていく自らが、そこにある
未熟であることを恥じ
もっと成長したいと強く思い
学ぶ
それが成長であり、自己の中での内なる進化となる
自分が世の中を判ったと思った時
自分の成長は止まり
しかし、世の中は進み続け、取り残される自分を発見する
うんと若くして
判ってしまう人が多過ぎる!
自ら自分の可能性に、フタをしてしまう人が多過ぎる
50になっても、55になっても
死ぬまで、自分がまだ知らないことが多過ぎるとつぶやき
未だ見ぬものに、ワクワクして生きている
そんな自分であることが出来たら
それは私にとって、一つの理想である
※初めてドイツの街並みを飛行機から見たとき
涙が止まらなかった
私のまったく知らない世界が本当にあったことに
それが目の前に現れたことに、止めようのない感動に震えた
これから、何があるか、どんなことがあるのか
考えただけで・・・・・
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