2003年01月27日(月曜日)
630話 新プロパガンダ
「プロパガンダ」という言葉がある
ロシア語であって
レーニン率いるロシア革命の時代、しきりに使われた
直訳すれば
「特定の主義主張の為に行われる一方的な宣伝」
あるいは「洗脳的宣伝」か
多くの場合
敵対する勢力に対する憎しみをあおり
自勢力の団結と、敵愾心を作り上げることを目的とする
自勢力は、“善”であり、“正義”なのであるから
“悪”であり“残虐”である敵を倒すためには
手段は選ばない
目的が崇高であり正義なのだから
その手段自体が卑劣であったとしても
つまり、手段である宣伝がウソであったとしても
正義の名の元に許される事
それが「プロパガンダ」
正義のためなら、手段は卑劣でもかまわない
つまり、「プロパガンダ」とは戦争行為の一つなのだ
北朝鮮で、執拗にTVで流されている
「残虐卑劣なアメリカと闘い」のドラマなどは
その一つの典型であろう
また、かつての太平洋戦争の時
「鬼畜米兵」
「勝った勝った、また勝った」の大本営発表もそうだ
かつての韓国、中国などでの報道管制もそうだ
独裁政権の下では、日常的に「プロパガンダ」がされている
しかし現代
インターネットが発達したので
権力者が自分の都合のいいウソを宣伝しても
そのウソが、簡単にばれてしまうようになった
インターネットは、
情報を、権力者の都合のいいようには制限できないのだ
いったんインターネットの扉を開いたら
あらゆる情報が無制限に流れ込んでくる
だから
中国でも、韓国でも、あらゆるかつて独裁政治が行われていた国での
権力者のための偏った宣伝
それを民衆に一方的に注入する行為
「プロパガンダ」が
通用しなくなり
結果的に、独裁政治から開放された
意外なことかもしれないが
インターネットは
無制限な情報の提供という手段によって
プロパガンダを木っ端微塵にし
世界各地において
流血無しに、民衆を独裁政治から解放した
正に無血革命
例外的に、インターネットに対して
かたくなに鎖国を敷いている
北朝鮮とかイラクなどのごくわずかな国を除いてだが
しかし、いずれ衛星回線でのインターネットが当たり前になった時
空から降ってくる無限の情報によって
鎖国が破られることは
想像できる
インターネットは、無制限な情報の洪水によって
作為的な偏った情報「プロパガンダ」を
ほぼ全面的に駆逐した
が、しかし
その反面、違った意味でのプロパガンダを生み出そうともしている
情報の発信者が匿名であることによって
誰もが、「成りすまし行為」が出来るようになったのだ
そして、作為的なデマが流される
“成りすまし”とは
自分の事を、違った人間、あるいは違った立場の者であると、成りすまし
ありもしない事を
あたかも存在するように、情報を流し
自らの利益に結び付けようとする行為
それが、いとも簡単に出来るようになった、ということ
いささか滅入っていることがある
このホームページは、世間に対して公開されているものであり
あらゆる人に開かれているものである
だから、あらゆる意見に対し
正々堂々と議論をしているつもりである
きちんと考え方を述べるのは、かなりエネルギーを使うものだか
それが公の場を作った者の責任と考え
真摯に、一生懸命やって来たつもりだ
しかし中には
議論するにも気力が湧いてこないものもある
一番、気が滅入ってしまうのが
その「成りすまし」
自分の立場を偽って
あたかも一般の人の代表である人ように、わざわざ名乗り
「みんなが、こう言っている」
と、攻撃してくる
「自分は客観的な立場であるが、みんながこう言っている」
こんな形が、“成りすまし”の共通パターンである
実際、このような場合には
真剣に悩む
どう見ても「成りすまし」のパターンなのだが
ひょっとして本物の読者が、本当にそう思って書いているのであったら
きちんと反論し、説明しなければならない
これはどう考えても、商売的な攻撃を目的としたもので
書いている人が自ら名乗っている立場の人とは思えない
そんな場合でも、ひょっとして、と思って
返信を一生懸命書いてきた
ずっと、そうしてきた
しかしそれが、あまりにもあからさまであると
まじめに反論し説明する気力が湧いて来なくなる時もある
「相手にする気にもならない場合もある」ということ
それで、悩み抜いた末に
その理由を書いた上で、“削除”してしまったこともある
そうすると
今度は
多分その文章を書いたであろうと思われる人が所属している
商売上の競合相手のHPに
「不当にも削除した」と
わざわざ第3者の立場で書いてくる
「成りすまし」とは
これは一種の
いや、新種の
正にプロパガンダではないかと思うのだ
本当に気が滅入ってくる
こういう事態を予想してか
社内の人間からは
「やっぱり堂々と反論すべきでしたよ。
本当の事を知っている味方が、いっぱいいるんですから
みんなに任せるべきでしたよ」
と、削除したことに対して批判的な意見を送ってくるものもいた
私がやった事を
“面と向かって”堂々と名乗って、私に対して批判するスタッフがいる
この事を
この会社が正常である証拠として
そしてまた、自分が裸の王様でない証拠として
私は大変嬉しく思った
私は、この会社がやっていることを
誇りに思っている
そして、携わっているスタッフと、製品と、全国の仲間と
なにより、わが社の製品を愛してくれている全国のユーザーが
本物であることに、誇りを思っている
だから
自分自身の尊厳にかけて、ウソだけは書くまいと思っている
自分の信じていることのために
それが正しいと信じているから、その目的を達成する手段として
嘘をつく事
つまり多くの場合の「プロパガンダ」を
私は、正しいと思わない
読み方によっては
私がこう書くこと自体が、プロパガンダであるというかもしれない
どう言っても、かまわない
私は、ちょっと真剣に怒っている
独裁の世界から、民衆を無血解放した
新しい時代の救世主「インターネット」を
せこい自らの為のプロパガンダの道具に使うとは、真剣に許せないのだ
インターネットの匿名性を
道具に使い
「みんな」を語って攻撃してくる
「面と向かって、来い!」、と思わず、そう独り言でつぶやいてしまうのだ
ただいま函館の定宿、ホテル「かもめ」
今日の函館は、珍しく嵐が吹き荒れている
今の私の気持ちのようだ
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2003年01月27日(月曜日)
629話 善と善との戦争
昨日、非常に興味あるお話を聞いた
戦争とは
“善”と“悪”との闘いではなくて
“善”と“善”との争いであるということ
お互いが
自分が善であり
お互いの相手が悪であると
そう決め付けるところに戦争が生まれる
今にもアメリカとイラクとの戦争が始まる
アメリカのカウボーイ“ブッシュ”は
自らを「十字軍」と称し
相手を「悪の枢軸」であるとして
これは正義の闘いであると、国民を鼓舞している
イラクの独裁者“フセイン”は
アメリカとの戦争をイスラム的「ジハード(聖戦)」と称し
全国民が玉砕しても
正義の闘いを戦うべしと、国民に強制している
同じくイスラムのアフガニスタンは
一昨年の、ニューヨーク国際貿易ビルに対する自爆テロを
殉教者による正義の闘いであるとし
アメリカは
歴史上初めての本土への攻撃を、「宣戦布告」であると位置づけ
正義の報復で
アフガニスタンを壊滅的に破壊した
今、北朝鮮では
日本人とアメリカ人が残虐な人種であると決め付けるような
勧善懲悪のテレビ番組を流し続け
憎しみを掻き立てるよな
プロパガンダを繰り返している
経済的にはとっくの昔に破綻しきっていて
餓死によって
大量の自国民を殺してしまっている事を
憎しむべき敵、日本・アメリカのせいだと責任転嫁し
「我々は本気で正義の戦争をやる用意がある」と、日本とアメリカを恫喝している
戦争の主催者である権力者は
自らが“善”であることを、戦争の前提にする
お互いにだ
そして、相手の国を邪悪な民族であり
あるいは異教徒である事をすなわち邪悪であるとし
侵略者であると決めつけ
自国は正義であり
その相手国による“被害者”であると煽る
かつて昔
日本も当時の権力者は、この国を「神の国」として
聖戦に突っ走った
自らは“善”であり
相手は悪であるとしたとき戦争が始まる
その両者を俯瞰してみれば
“善”と“善”との戦争であるということになる
「平和とは、相手の事を認め、許し、受け入れること」
それが違う人種・民族であっても
違う文化のものであっても
違う宗教のものであったとしても
それはそれとして
違うだけであり
優劣があるものでもなく
その事そのものに善悪があるものでなくて
ただ単に違うだけであり
憎むべきでもなく、戦うべき動機になるものではない
「平和とは、相手の事を認め、許し、受け入れること」
私はこの話に、大変納得してしまった
ここからは私の話
はるか大昔
ヨーロッパ諸国は
自らを“優越した民族”とし、自らの宗教こそ“聖なる教え”として
世界を蹂躙した
実は、たまたま圧倒的な武器の発達を得ていただけの
ヨーロッパ諸国は
南米のあらゆる民族と
北米のインディアンたちと
オーストラリアのアボリジニ
アフリカの無数の民族
アジアの最も歴史ある民族たちを
劣った人種
劣悪な民族
邪悪な異教として
徹底的にその文明を破壊し
人としての尊厳を侮蔑した
何千万人ものアフリカ人を奴隷とし、人としての尊厳を奪いきり
北米、オーストラリアにおいては土地ごと、国ごと乗っ取った
アジアにおいては、日本を除いたすべての国を植民地として搾取しきり
麻薬付けにして
人格をも奪った
人に、あらゆる人に
優劣はない
あらゆる生き物にも優劣はなく
自然そのものに等しい尊厳がある
しかし、長い年月を経て
陵辱され続けた圧倒的多数の民族は
ある場合には、自らの当たり前の尊厳を取り戻すための
凄惨な闘いを経て
また、ある場合には
自らを陵辱する者すらも「許し、受け入れ、認める」
つまり、“不戦の闘い”を経て
自らの尊厳を取り戻し
ほとんどの世界において、
自治と、自由を取り戻し、平和を勝ち得ている
「平和とは、相手の事を認め、許し、受け入れること」
わたしは、これを素晴らしい考えだと思った
ただ、圧倒的に強い国
あるいは、自らだけが“善”であると主張する国
その彼らがお互いに
自らを善とし、相手を悪としている限り
戦争が根絶されることはないのであろうか
話はグッと変わって下界の話
今日の写真
「や台寿司」
名古屋で急成長している外食産業の一つ、3年で五十数軒できた
内装屋さんが始めたチェーン店で
レトロ調の店作りが売りだ
いつも、私はこの手のチェーン店で飯を食べる時
つい、あら捜しをしてしまうのだが
「相手の事を認め、許し、受け入れる」話を聞いたからか
すっかり売れ入れる気持ちで食べたら
すごくおいしく感じた
人の話でこんなに変わるものか
しかし、“椅子が板”だったので、尻が痛くてしかたなかったので
それだけは、どうしても受け入れ難かったのはご愛嬌である
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