2005年04月29日(金曜日)
1163.27時間上海出張
(スーパー耐久参戦記にも『レース後のこと』を書きました。)
レースを走りにサーキットに行って、結局走らなかったのは初めてであった。
今までの自分だったら、自信があろうとなかろうと、
とりあえず“やるっ”で、通してきたはずなのに、
今回は、明確に“出来ない”と考えて、走るのをやめた。
予選だけでも走ってみて、その具合でレースに出るかどうかを決めることも出来たが、
出ることに何のメリットも見つけられなかったし、
稀な“勝てるかもしれないレース”に、
自分が出ることによって、
それがただのハンディになるだけのことならば、出たくないと思った。
こんなことは、今まで何度もあった筈なのに、
今回初めてそう思った。
それでもなお自分が出たとしたら、それは、とても理不尽なことに思えたのだ。
ここで昔話。
レースに関わったのは、
多分、7年ぐらい前のことである。
今のトレーニングセンターが、まだクリーンベースWithという名前で、
洗車に特化したガソリンスタンドとして営業していた頃だ。
そのクリーンベースに、
アルバイトとして働いていた“神谷君”という子がいて、
ある日、その神谷君が私に言ってきた。
「僕は今、プロレーサーを目指しています。
自分にはレーサーとしての才能があるとヒシヒシと感じるんです。
それで今、レーシングカートの全国シリーズに挑戦しています。
このシリーズで勝って、勝って、
次はフォーミュラに挑戦して、勝って、勝って、勝って、
上に昇って行って、最短でF1まで行きます。」
なんと天真爛漫というか、自信過剰というか、勘違いというか。
それで、「そのシリーズを闘うのにかなりの資金が要って、
奨学金とか銀行からの育英ローンで賄っているんですけど
それでも足らないので、少しだけでいいから助けてもらえないでしょうか。」
早い話が、スポンサーをして欲しいという申し出であった。
1レースについて3万円。
全部で7レースだったはずなので、総額21万円。
多分、全費用の20分の1にも足らなかった金額であったろう。
レーシングカートといっても全国クラスとなると、
毎レース、練習用、予選用、本番用と3セット以上の新品レースタイヤが要るし、
エンジンだって、たった100ccの排気量で20数馬力を出す高いチューニングエンジンを、
少なくともオーバーホール済みで1レースに2セットは用意せねばならない。
私は、「へえ~~」と思って、ちっぽけなスポンサーになることを承知した。
しばらくは、レースの度の報告を受け、3万円を振り込むだけであったが、
「一度見に来てください。今度、岐阜県の瑞浪でのレースなんです。」
で、たまたま予定がなかった私は“瑞浪スピードウェー”にレースを見に行った。
そこでハマってしまった。
自分も乗って見たくなってしまったのである。
見るまでは、
「レーシングカートと言っても、たかが“カート”じゃん。」と、思っていた。
が、
見たら、すごい、すごい。
メチャクチャ迫力があって、とにかく速い!
これは乗ってみたい!
ということで、神谷君が世話になっていた豊田市のカートショップで、
中古のレーシングカートを買った。
そして、「カートって、ほんとに面白いから一緒にやろうよ」と、
無理やりにグリットの吉田君を誘って、足しげく瑞浪に通った。
最初は走っているだけで満足で、
徐々に上がってくるタイムに、ワクワクし、
吉田君とのタイム差に、勝った負けたと一喜一憂していた。
『カートでミニサーキットを走っていれば、幸せだった。』
『練習だけで十分だった。』
そのうちに神谷君に煽られたこともあって、
「一回だけ“レース”に出てみるか」と、なった。
レースは面白い。
特に、遅い車をパスする時は快感である。
レースに出てしまったら、今度は
走っているだけで楽しかった練習が、レースに勝つための練習になった。
その間に、
神谷君は、レーシングカートの全国シリーズを続けることを断念してしまった。
勝てなかったし、やっぱりそう簡単には勝てなかったし、
資金も尽きて、断念してしまった。
私たちが出たレースは、
初心者用のレースで、
使うヤマハの100ccKTエンジンはたった14馬力。
55kgの体重が標準で車重が決まっていたレーシングカートは、
当時から80kg以上の体重であった私と、それに順ずる吉田君では、
重量/馬力が大きすぎて、とても、レースで勝てるものではなかったが、
それでも、
カートもまた中古のカートを買って2台になっていて、
吉田君と一緒にレースに出ると楽しかった。
私も吉田君も、当然、勝つことは出来なかったが、
運がいいと(前の車がいなくなったり)、入賞してちっぽけなトロフィーを貰ったりした。
神谷君もよく手伝ってくれた。
この頃はこの頃ですごく楽しかった覚えがある。
『カートのレースに出るだけで楽しかった。』
随分たくさんのレーシングカートのレースに出た。
しかしそのうちに、勝てないことが分かっていながら出ることに、
ちょっと、つまらなく感じていたことも事実だ。
「痩せなきゃイカンなぁ~、このままでは話にならんなぁ~。絶対勝てんなぁ~」
と、今と同じようなことを言っていた。(^・^)
そんな頃、
今度は、会社の顧客の支店の人から、
「自分の元同級生の友達がレースをやっていて、資金に困っているので、
助けてやってもらえないか。」
そんな話があって、
そのレースを見に行った。
それがMINEサーキットである。
初めて見る草レースは、それまでに何度か見に行ったF1レースとは全く違うもので、
ほとんど、いや、全く観客のいないサーキットで、
繰り広げられる真剣なコース上での勝負は、別の意味で感動した。
それで、スポンサーになることを承知して、
何度かレースを見に行くうちに、
「谷社長も一度乗ってみませんか。ぜったい乗れますよ。」
というお誘いにあっさり乗ってしまった。
今回も「観ている内に、自分も乗ってみたくなってしまった」のパターンに
すでに入っていたのだ。
何度か、遠くMINEサーキットまで通って、
練習をしたが、なかなかうまく乗れない。
変速のないカートに比べて、一般車を改造したレースカーはやることが多すぎる。
特にミッションと、クラッチが大変なのだ。
一緒に通ったグリット吉田君も(また無理やりつき合わされている。)
「いつになったら、1分50秒を切れるんだろうなぁ~」と嘆く日が続いた。
今でこそ1分40数秒だが、50秒を切るまでには並大抵の苦労ではなかったのです。
「やっぱり自分の車を持って、練習しないと、なかなか上達しませんよ。」
と言われて、うっかりその通りだと思った。
そこで出てきたのが、畠中オサム君。
彼も、勘違い・神谷君と同じように、自分をアイルトン・セナと思い込んで、
レースに入れ込み、
とうとう資金的に行き詰まり、
今の奥さんの絵里さんと結婚しようとした時、自分のレースカーを売る決心をした。
簡単に書いてしまったが、そこまでにはたくさんのドラマがあったらしい。
つまり、キーパーレビンは、元は畠中君の車だったのです。
その頃の若き畠中オサム。
やはり自分のレースカー、つまりいつも一緒の車で練習すると上達するのか、
あっさりと50秒台を切って、49秒、48秒、47秒台と、
それでもそれなりに苦労して、タイムを上げていった。
たいてい一緒であった吉田君とは、いつも同じようなペースで、
「今日は俺が0.2秒速かった」とか、「0,15秒負けた。悔しい~」とか。
『レースカーでサーキットを走ること自体が楽しかった。』
その頃、帰りの新幹線が満席で席が買えず、デッキに座り込んで帰ったこともある。
(吉田君もかわいい時があったのだ。)
さぁ、こうなったら、
今度は「レースに出てみる。」とパターンである。
みんなにそそのかされながら、それをいいことに、やっぱりレースに出た。
思い出してみると、
ずいぶん何回もレースに出た。10回数回以上は出ている。
18周の混走スプリントレースにも何度か出たり、
その中では、運がいいと(毎度の、前がいなくなった時)
表彰台に上がったりもした。
吉田君と、畠中君と、チームを組んで耐久レースにも出た。
『レースに参加すること自体が楽しく、それで良かった。』
この頃が一番楽しかったかもしれない。
それから、色々、色々、色々、色々あって、
山本信君と知り合ったり、
田中さんと知り合ったり、
スーパー耐久のスポンサーになったり、
色々、色々、あって、
その間も、?25のキーパーレビンで練習したり、レースに出たりした。
しかし、去年、一昨年スーパー耐久を走ったインテグラを買って、
十勝の24時間スーパー耐久に出場という暴挙に出て、何かが変わった。
せっかくインテグラを手に入れたのだから、
これからはインテグラでレースに出ようということになる。
この車は、キチンと車を作って勝負すれば、
草レースならば、ひょっとしたら勝てる車である。
今までのレビンは大きなハンディキャップを貰って、
しかもかなり運が良くなければ、表彰台を狙えない。
しかし、今度のインテグラは、
全くのノーマルエンジンであっても、なかなかいいタイムが出た。
真剣に走れば、勝てるかもしれないのだ。
勝ちに行くためのレースが出来る。
そうなると、畠中オサム、山本信らに2秒は遅い私は(1秒は体重?!(^^)!)、
ただのハンディでしかない。
『参加して楽しむレースから、勝ちに行くレース』になった。
ならば、私が出る意味はない。
ハンディになることが解っているのに、なおも出たくはない。
誰だって、レースには出るからには勝ちたい。
参加することに意義があるというのは、
本当のレースではなく、“ごっこ”ということになる。
それが草レースであったにしてもだ。
畠中だって、山本だって、
レースに出るからには、ましてや勝てる可能性があるなら、勝ちたいに決まっている。
もうそろそろ限界である。
これ以上はエスカレートはすべきではない。
53歳になったデブなおっさんが、これ以上は頑張ってはいけない。
だいいち、
今、仕事が半端でなく忙しいのだ。
今年まだ一軒も造っていない直営の快洗隊も、後半、立て続けに3~4軒出来る。
しかも来月から、
半年間で約500回の総合洗車スクールをやるというあるビックプロジェクトも始まる。
日本の洗車シーンが変わってしまうかもしれないほどの大きなことが始まるのだ。
整備業へのアプローチもすでに始まっていて、おろそかには出来ない。
何種類かの新製品がいい線にまとまりつつあり、
ひょっとしたら今年の年末に掛けて、新製品ラッシュとなる可能性もある。
海外での事業も本格化しているし、
本当は、レースどころではないのだ。
昨日の9時20分初の飛行機で上海に行って、
今日の8時50分発の飛行機で上海から飛び、名古屋に12時に帰ってきた。
約27時間の上海出張。
これから先、ひょっとしたに“上海日帰り出張”なんてこともあるかもしれない。
昨日の夜は、朝一番の飛行機に確実に乗れるように、
飛行場のすぐ横のホテルに泊まった。
ただし、こんなことを書いても、
私がショボクレタ訳でも、くたびれた訳ではありません。
私は元気です。
本当に元気です。バリバリです。
今年は、とにかく物凄い年になるので、
少なくとも今年だけは、
真剣に、レースのことは、もうやめて置こうと考えただけなのです。
私は、元気です。
今回のレースではずっとピットにいて、
日に焼ける場所(タバコが吸える場所)に座っていたので、真っ黒になってしまいました。
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