2005年06月01日(水曜日)
1183.仮面舞踏会の大胆
中世のヨーロッパ、貴族の社交界において「仮面舞踏会」が催されていたという。
私は、仮面舞踏会そのものについてはまったく知識がないので、
何も言えないのだが、
映画などで見るその様子は、
何か怪しいものがあって、胸ときめく光景であった。
みんなが仮面マスクを被り、
お互いがお互いを知らない者通しとして、
自分が誰なのか、正体を伏せた上で
男と女が肌を寄せ、手を取り、軽快な音楽に合わせて踊る時、
どんな会話が交わされたのか。
素顔をさらしている時には
とても言えないような恥ずかしいことでも、
相手に自分が誰か分らなければ、言えるものなのだろう。
男と女の大胆な言葉が、あるいは破廉恥な言葉が、
仮面を通して交わされたのかもしれない。
普段は自分を護る意味で、節操を守り、節度ある言葉と行動の人が、
自分が自分であることを隠したとたんに、
とてもその人とは思えないような
大胆であり、恥ずかしいことを平気で出来るようになることも有る。
まるで仮面舞踏会における紳士淑女たちのように。
ある意味では、
私たちが着ている服とか、持ち物とか、車とか、
そんな物も一種の仮面なのかもしれない。
自分があるべきと願っている本来の自分と、実際の自分にギャップがある場合、
そうありたいと思う自分のように少しでも見られるように、
それらしい服装をし、それらしい持ち物を持ち、車に乗る。
「自分らしさの表現」とは、
実際の自分よりよく見せる事を指す場合が多い。
実際の自分に仮面を被せるように。
逆に、自分の姿が相手から見えないことが分っている場面である時は
つまり、仮面を被った時には、
思いっきり破廉恥に、
凶暴に実際の自分をさらけ出す。こんなこともある。
見えている時は、自分を飾り、
見えない時には凶暴になる。
まるでジキルとハイドの世界である。
たぶん、普段から自分を飾らず、素直にさらけ出していれば、
自然なままでいることが出来るものを、
いつもの自分を、実際の自分と違う自分として見せたいばかりに、
虚像を作り出し、振る舞うことは、当たり前のようにあることだ。
しかし、その反動として、
自分の姿、正体を隠すことが出来る状況が出来た時に、
がぜん実態が表面化し、反対の極として凶暴化するということがあるとしたら、
それは、とても怖いことで、
実は、有ったはずの本当の自分すら無くなってしまう悲劇である。
いつも、飾らずにいれば、
あるいは、いつも自然にいることが出来れば、
自分が相手から見えない時でも、
怪物のような悪しき極である自分に化けることもないのだろう。
みんなに見えるところで、
自分が良く見えるように化けることをせず、
あくまでも、あるがままに自然であることが出来さえすれば、
怪物のように化けることもせずに済むのだ。
成功したければ、
幸せになりたければ、
みんなを幸せにしたければ、
自然のままに、全力を尽くす。
これ以外にはない。あらゆる意味においてこれ以外にはない。
現在、わが社の事務所1Fは全面禁煙である。
タバコ吸いの私たちは、倉庫の入り口の片隅にある「喫煙所」が、
新しい社交場として賑わっている。でも、誰も仮面は被っていません。
※この写真の左の隅の方に、我が社交場「喫煙所」が有る。
※拡大すると、アイ・タック一番の愛煙家・ショーピースの池本部長と、経理の新美さん。
みんな、この社交場では自然に仲良しになるのです。
一生懸命ほぼ毎日インスト日記を書いている「青木君」と
開発部の自然児「増田君」
予定外の一泊をしたあと、今日の朝、札幌からの帰り、
朝早い飛行機が満席で取れず、
10時半の飛行機に乗ることになった。
時間が有るので、札幌市内から千歳空港への道を、高速ではなく、
うんと大回りの山越え支笏湖経由にした。
北海道の“緑”は、名古屋の“緑”とはまったく違う“北の自然の緑”であった。
千歳からのフライトは、山が絶品であった。
秋田か青森か、どちらの県にあるのか忘れたが、
「鳥海山」(多分)
たぶん、北アルプスの辺りだろう。空の青と山に残る雪の白さが鮮烈であった。
何百回も通ったであろう北の地方と名古屋の航路、
眼下の景色に「たぶん・・・だろう」とは、
今まであまり言わなかったが、
名古屋空港から中部国際空港に変わったせいなのか航路が微妙に変わり、
下の景色が新鮮であり、
しかし、何処がどの辺であるか、迷ってしまった。
それでも、
この山は間違いようがない。
降下し始めてから見えた“富士山”。
一度雪がうんと少なくなってしまった富士山だが、また雪が増えている。
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