2007年02月21日(水曜日)
1586.有限/∞=ゼロ?
着陸まであと三時間。
とうとう飛行機の中、四つ目を書き始めた。
と言っても、何を書くという当てもなく書き始めたのだが、
何を書こう。
「時間よ止まれ」とは、よく言うことだが、
たとえば歯医者さんで順番を待っている時、
診察室の中から聞こえるキューーーーンというドリルの音を聞きながら、
「アーいやだなぁ、痛そうだなぁ、アー時間が止まればいいのになぁ」と思う。
みんなといて、お酒でも飲んで、最高に楽しい時は、
「時間よ止まってくれ」とは思わない。
楽しくって、それどころではない。
夜寝る時、
自分の耳を枕にくっつけた格好になった時、
どこかの動脈から心臓の鼓動がよく聞こえる。
私は自分の鼓動を聞くのがきらいだ。
「心臓の鼓動が何回打てるのか、人は一生のその上限が決まっている。」と
医者が言ったのを聞いた事がある。
とすると、鼓動の音は、心臓が止まるまでのカウントダウンという事になる。
自分の死までのカウントダウンを聞いているようで、
「時間よ止まれ。」と思う瞬間である。
自分が死刑囚だったら、
死刑執行の時間が分かっていて、
その時刻が刻々と近づいてくる時、「時間よ止まってくれ」と心の中でつぶやくだろう。
全神経をその言葉に込めて、
「時間よ、頼むから、止まってくれ」と切に祈るだろう。
時間の流れとは一体何なのだろう。
アインシュタインの相対性理論によれば、
物体が高速で移動すると時間が伸びるとあった。
高速と言っても、光の速度、光速の何%というレベルの恐ろしいスピードだそうだ。
そんなスピードで物体が移動すると、
その物体に対する時間が遅れていって、
物体の質量が大きくなっていくそうだ。
さっぱり分からないが、だそうだ。
ということは、いくら祈っても、願っても、
時間は絶対に止まらないし、遅れてもくれないということなのだろう。
いくら長い時間の先にあっても、
時間は必ず進んでいくのだから、その時は必ずやって来てしまう。
その結果、生き物は必ず死ぬわけだから、
私たちに与えられている時間は有限なので、
無限である時間の流れの中では、
有限/∞=ゼロで、
私たちは時間的に見るとゼロでしかない。
でも、現実に“存在”していることは、
今、自分が存在を認識しているということで証明できるので、
私達はゼロではないので、
有限/有限=存在となり
時間の長さは無限ではない事になる。
有限の長さを持っている時間とは、どういうものなのだろう。
私の概念ではとても思い描けない。
あるいはもう一つの答えがある。
時間は無限であるし、
私たちの存在も無限であるということ。
∞/∞=1?
私たちの存在そのものが無限であることは考えられないだろうか。
物理的には無限であるわけがないので、
あとは魂という事になるが、そうなるとだんだんオカルトっぽくなってくる。
時間は、自分の領分からすれば無限でも有限でも良くて
決して止まらず、遅れず、
誰もみんな、刻々と死刑宣告を待つかのように、
死を待っているということか。
しかし、そのあとに無限の無が存在するなら、
限りある今の命を精一杯生きても、
有限/∞=ゼロの中に消えてしまうのか。
でも、私は存在している。ゼロではない。
だんだん自分が無限の時を得ているような気がして来た。
ロスに行った時とは逆の時差が、いよいよ私の頭をボケさせてきたのだろう。
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2007年02月21日(水曜日)
1585. ああ つまらない。
成田からロスに飛んだ時には、「7時間50分」かかった。
今はその帰りでロスから成田に飛んでいる最中なのだが、
ロスを飛び上がってから
もう7時間30分経っているのに
まだ成田まで3,200kmもの距離が残っている。
先程、日付変更線を越えたばかりで、
到着までにはあと4時間ちょっとかかる。
ロスから成田へは「11時間40分」もかかるのだ。
行きと帰り、
つまり東に向かって飛ぶのと、西に向かって飛ぶのでは
おおよそ1.5倍の時間がかかる。
地球の上空には偏西風(ジェットストリーム)という風が、
地球の自転と地球と空気の摩擦と、
宇宙空間と空気の摩擦の関係で、常に吹いているらしい。
どういう仕組みで吹いているのか、あまりよく覚えていない。
この偏西風は大変に強い風で、
偏西風というからには西風であって、西から東に吹く。
だから、東に向かって飛ぶ場合は、
その偏西風に乗って飛ぶ事になり、
飛行機の「対気速度」が900km/hで、
偏西風が150km/hならば、
飛行機は地面に対して(対地速度)
900km+150km/h=1050km/hで飛ぶ事になる。
その逆に西に向かって飛ぶ場合は、
その偏西風に逆らって飛ぶ事になるので、
上記の例で言えば、
900km-150km/h=750km/hで飛ぶ事になる。
西に向かって飛ぶより、東に向かって飛ぶ方が約1.5倍早くなる訳だ。
そう思って、2年ほど前に東周りで世界一周をやったのだが、
時差の関係では、
時間がどんどん短くなっていく方向でもあるので、
乗っている時間も短く、一日の時間もどんどん短くなり、
ニューヨーク⇒ミュンヘンあたりで
体が時差で狂ってしまったことがある。
今思い出しても、あの時の辛さは相当であったが、
地球の一周3万キロを、1050km/hで単純に飛べば28時間で済むところを、
西向きの750km/hで飛べば40時間はかかることを考えると、
12時間、半日の差は大きい。
万が一、今度また世界一周をする機会があったら、
多分、私はまた、東向きで回るのではないかと思う。
(でも、もう世界一周はしたくない。)
遅い西向きで飛ぶロス⇒成田は、11時間40分の長丁場
先程からかなり飽きてきている。
飛行機が午後1時に飛び立って、すぐにランチが出た。
みんなが食べ終わったのが午後2時半ぐらい、
それからずっと窓をぴっちりと閉めて、
機内を真っ暗にしている。
西向きに飛ぶと時間が長くなる方向なので、
午後1時に出発して、11時間経っても午後5時にしかならない。
つまり外はずっと昼のままなので、機内暗くして夜を作っているのだ。
だけど、暗くすりゃ寝れるってものじゃない。
さっきから、
パソコンを打ったり、うろうろ歩いてみたり、
一生懸命に目をつぶったりしているが、いい加減に飽きた。
到着は午後5時40分なのだから、
そろそろ到着地に合わせて、窓を開けたほうがいいと思うのだけど、
この飛行機はいつも、真っ暗にしておく時間が長い。
ああ、つまらない。
コラムも三つも書いてしまって、飽きた。
ああ、もう早く、こんな飛行機から降りたい。やだやだ。
真っ暗はきらいだ。
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2007年02月21日(水曜日)
1584.アメリカと日本は
日本とアメリカには色々な意味で大きな差がある。
多民族国家と単民族国家の差なのか、
絶対的な国家面積の差なのか、
はたまた価値観の違いなのか、
たとえば、飛行機から降りる時、
日本では降りる準備が出来、立っている者から次々に降りる。
アメリカでは
前の席の人が荷物の準備が出来るのを待ってまで譲り、
前の席の人から順番に降りる。
(中国では我先にと、前の人を押しのけても先に降りようとする。)
アメリカでは、
席とかドアなどを人に譲る事がマナーとされ、順番をキチンと守る。
日本でも順番はキチンと守るが、
先に行ける人がいれば、待ってまでは譲ることなく、
先に行くことは当たり前であるとされている。
私は、日本のやり方の方が合理的だと思うのだが。
アメリカでは、
車椅子に乗っているなどハンディキャップを持っている人に対して、
大変に親切で、みんなが“譲る”美徳を発揮する。
日本では、
相手のハンディキャップに気が着かないフリをする事が美徳とされ、
もちろん譲ることもするが、それも何気なくすることが親切だと考える。
宗教的な違いも大きいのであろう。
アメリカでは“隣人”という考え方があり、
日本では“世間”という考え方がある。
何かで読んだ事があるが、
アメリカでは、毎週、教会に行く人が国民の過半数であり、
キリスト教以外の宗教も入れれば、大多数の国民がなんらかの宗教を信じ、
宗教が生活の中に入っている一大宗教国家であることを。
アメリカでは、無宗教である事がむしろ少数派であるそうだ。
日本では、
正月は神社に行って、
結婚式はキリスト式で行い。
死んだら仏教式の葬式を挙げるのが一般的であり、
無宗教の人が大多数である。
アメリカでは譲ることが美徳とされている。
が、しかし、
権利意識も大変に高く、
何かあればすぐに裁判所に訴え、
特に賠償責任訴訟では驚くような高い賠償金が動く。
誰もが大会社を相手に、裁判で巨万の富を引き当てるチャンスがあるのだ。
日本では、
裁判所に訴えるということは滅多にあるものではなく、
大袈裟にしたくないという一種の抑制がある。
万が一、賠償責任訴訟を起こしても賠償額は妥当なもので、
会社側に大きなダメージを与えることもなければ、
訴訟を起こした者に巨万の富がもたらされることもない。
ただ、最近では商品の欠陥が発覚した時、マスコミがリンチのごとく叩き、
その会社の存在を危うくするような事象が多くなっている。
アメリカでの商品の販売については、
PL保険(製造物責任保険)を絶対に入るように、
日本の保険会社で入ろうとしたら、
アメリカでの保険料は、日本での10倍以上であった。
それだけ訴訟リスクが高いということであって、
商品をアメリカで販売するには、それなりの覚悟がいるということなのだろう。
アメリカでは、
地域の人、職場の人、友達、お客様、
色々な人を自分の家に呼び、彼らはホームパーティーを開く。
仕事での人間関係も、
個人の家庭と家庭の付き合いにまで実現し、
それが最高の関係である。
アメリカでは、積極的に仕事を家庭に持ち込み、
奥さんが立派にホステス役をつとめる。
日本では、
仕事を家庭の中に持ち込むことを嫌い。
外の店で食事などをしたり、ゴルフをやったりで人間関係を作り上げる。
その多くは男同士の付き合いであり、
お酒を飲む店で、プロの女性をホステスとして使う。
アメリカでは
“階層”がはっきりと存在していて、
たとえば
「チップを渡す人=中産階級以上」と
「チップを貰う人=低所得者層(たとえば移民)」に別れている。
可能性という意味では平等だが、
スタートする時点で、かなりのハンディキャップを背負う人たちが多い。
日本では
見事にスタート時点でのチャンスの平等が与えられていて、
誰でも、自分の努力と力次第で、何でもできる。
日本の社会は格差が大きいと、テレビなどで話題になっているが、
私は、逆に日本ほど格差の無い国はないと思っている。
どんな日本人でも、
すべて平等のチャンスがあり、
日本では、「本人次第」の他に
最初からの社会的ハンディキャップとしては何も存在していない。
日本ほど平等機会が保障されている国は無いだろうと思うのだ。
車をきれいにする習慣があること自体は同じだが、
アメリカで洗車やディテールを行なっている人は、
低所得層の人達、ロスならばメキシカンが中心であり、
主に白人のアメリカ人(中産階級以上)は洗車をさせる方である。
金持ちが貧乏な人に車を洗わせているという構図である。
アメリカの低所得層と中産階級以上では、
その所得が、埋められないほどの決定的な差がある。
昨日のデモも、普段はメキシカンがディーテールを行なっている場所。
日本では、
もちろん同じ日本人が、同じ境遇の日本人の車を洗い、磨いている。
洗うほうも、洗われる方も、基本的に所得と待遇に差があるわけではない。
だから、みんながプライドを持ってその仕事をする事が出来る。
これはかなり意味が違う。
アメリカ人は車をよく洗う。
トニーが言うには洗う回数が多いそうだ。
何故そんなに洗うのかと言えば、
「たとえば会社の駐車場に車を止めた時、自分の車が汚かったら、
それを見た会社の同僚たちが『汚いッ』という不愉快な感情を持つ。
それは申し訳ないことなので、汚れたら洗う習慣がついている。」だそうだ。
ほお~っと思った。
「我が隣人が、汚い我が車を見て、不快感を持っては申し訳ないから洗車をする。」
こんな発想は、思いつきもしなかった。
たくさんの意味で違うアメリカと日本。
日本で支持されたものが、そのままアメリカで通用するものではない。
我々の洗車やコーティングのメリットをもって、
何をどうしてアメリカでの位置づけを作り出して行けばいいのだろうか。
帰りの飛行機の中、しばし考え込んでいる。
日本にいては出来なかった発想が生まれてくるような気がする。
18日の午後、成田空港から発って、
18日の午前中にロスに着いて、(日付変更線の関係で日にちが戻っている。)
19日に、大きな客先で仕事をして、夕方にはすべての仕事が終わった。
20日の午後一番の飛行機でロスを発ち、
21日の夕方、成田空港に着く。
正味4時間余の仕事の為に、丸四日間を使った。
何とも効率の悪い仕事である。
しかしアメリカは、日本とはあまりにも事情が違い、スケールが大きい。
一つのビジネスが作り上げられたら、
それはとてもスケールの大きな事になるであろう。
今の無駄が将来の大きなチャンスに結びつく可能性があるのだ。
日本ではやらなくてはならない事が山積し、
いずれも、たくさんの人たちが関わっている大切な仕事だ。
先日、今年のスーパー耐久レースを一緒にやって行く会社の社長から、
「海外は、日本国内がしっかりしてからの話だよ。」との、ご助言をいただいた。
「日本での仕事が何もキチンと出来ていない状態で、
何のための海外のビジネスか。」という意味だ。
おっしゃることは十分解るのだが、
それでも日本国内だけを見ていると、
自分の発想が小さくなってしまうように思うのです。
私たちの仕事は、発想が一つの大きな要素なのであり、
いつも感覚を新鮮にして置かないと、
新しい時代の方向が見えなくなってしまったりするのです。
今日が昨日と同じでは、
明日も今日と同じになって、
いつまで経っても同じで、
それでは自分が腐っていくような気がするのです。
だから仕事的に自らの感覚をリフレッシュするという意味も大きいのです。
この四日間を有意義にするか、無駄にするかは、
私自身の問題なのでしょう。
アメリカの自動車屋さんはスケールがでかい。
これ全部、新車納車待ちの車だそうだ。
成田行きのシンガポール航空のジャンボが飛び上がったのは午後1時過ぎ、
帰りは偏西風が逆風になるので、
11時間半ほどかかる。
日本に帰る。
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2007年02月21日(水曜日)
1583.おばさんは可愛い
(ここに書くことは、
世の女性のすべてを敵に回す事になるかもしれない。
恐怖心を超えて書くのは、時差でボケた頭のせいである。
わたしのセイではない。(^・^))
女性は歳を取る事に恐怖心を持っているのか、
「若く、見える」ことを非常に気にするが、それは何の意味もないように思う。
そう思うのは私自身が歳を取ってきたセイかもしれないが。
元々男と女という性が生殖の為に別れていることは、
ダーウィンを持ち出すまでもなく、定理である。
男は自分の種を残す生殖本能として、
まだ若く、生殖能力の高い手付かずの女性を本能として好み、
それを美しいと感じる。
これは、動物として与えられている本能であって、
人間としての感性とか文化とは関係ない。
つまり、
女性の若さとは、
男性の動物としての本能による意識の対象物であり、
「女性の若さ」とは、それ以外に何の意味があるのだろうか。
若い時から女性はそのことを本能的に知っており、
若さを誇るように
自らの肉体をさらすことによって、
それに男性が反応するのを感じ、
それが自らの存在価値と錯覚することがある。
女子高校生が異常に短いスカートを身に着けて、
生足という靴下も何も履かない太ももを露出して街を闊歩する姿は、
彼女らがまだ人間として未熟であり、
動物的な存在にとどまっていることを思う。
自らの人としての存在意識が、肉体の存在に負けていることに他ならない。
私は若い女性と話すのが苦手である。
私がおじさんになったから、話題が合わなくなったのかもしれないが、
若い女性は一般的に受動性が強く、
こちらから何か話を作っていかないと続かない。
話がちっとも面白くないのだ。
若い女性は、本能的に若いということ自体が存在価値のように
受動的であることが、よりその魅力が増すようになっているのか。
例外的に、主体的な生き方をしている若い女性が、
主張すべき自分の存在を自らの中に持っている時、
ものすごく魅力的な人がいるが、
若い女性の多くは、それが美徳であるかのように受動的である。
年に一度か、女性のいる飲み屋さんに行くこともあるが、
ホステスの女性と話をしていても、ちっとも面白くない。
こちらが作った話題に反応はするが、
返って来る話が薄っぺらくって、すぐに終わってしまうのだ。
あとは沈黙。
安い飲み屋さんに行くからそうなのか、私には解らないが、
いずれにしても、お金を払って黙って飲んでいても、ちっとも楽しくない。
その点、私はおばさんが好きだ。
人生をたっぷり経験して、たくさんの教養を身につけ、
豊かな感性を持って
いっぱいのことを知っているおばさんは話題に尽きない。
人間的魅力に溢れ、何時間も話をしても飽きない。
男は、女性をいつも本能的に見ているわけではない。
精一杯働いて、自らの感性を磨き、
人間としての魅力をたっぷりと身に付けた女性が大好きだ。
女性は若い時、
男性から本能的なコミュニケーションを受ける結果、
自らの存在意義をその中に見つけるのは、仕方がないことだ。
しかし、年を経て母になってもその性的存在意義から抜けられずに、
いつまでも肌を露出したり、
本能的な魅力を放出する事に呪縛されている女性は、
若くなくなった時、
本能としての性的魅力はなくなってくるので
自らの存在に反応しなくなった男性に対して被害者意識を持つようになる。
母としての、あるいは人間としての魅力の意味が解らず、
何の教養も備わらないまま、人間不信になることすらある。
その反動として、居直り、
人に対する思いやりも、謙虚さも無くなって、
少数ながら、ただ図々しいだけのがさつなオバサンになってしまうことも、ある。
しかし、多くの女性は、
子供を産んで、育てて、
その劇的な体験は、人を愛する心をたっぷり養う事になるのだろう。
母親になった女性は主体的になって、ますますその魅力に磨きがかかる。
子供産むか産まないかは別にしても、
多くの場合、ある時から、
女性は受動的な生き方から主体的な生き方をするようになって、
自らにたっぷりの教養と知識と、豊かな感性と、深い価値観を持つようになる。
これはある意味では男性でも同じ。
たっぷりの豊かを身につけた人間が魅力的であるように、
女性の場合も、磨きのかかった“いい女”になるのは、おばさんになってからなのだ。
人間的な魅力を持ったおばさんは、
実に可愛い。
私の会社でも、本当に可愛いと思う時がある。
若い時、ちやほやされた女性が、
子を持ち、しっかりと育て、人間的に成長して
その上で一生懸命働いている姿は、人間としての魅力に溢れている。
実に魅力的で本当に可愛いと思う。
連れ合いだって若い時より今のほうが百倍も魅力がある。
若い時の女性の魅力なんて、ほんの一時のもの。
本当の人間としての魅力は、自らを磨いたおばさんになってからなのだ。
今日、トニーのお宅でまたご馳走になった。
ロスにやってきて一番の楽しみであるトニーお手製のステーキである。
トニーのお宅には、
奥様の益美さんのお友達が、お二人いらした。
奥様とそのお二人は、大阪万国博(!)の時のコンパニオンであったそうだ。
その時からのお付き合いで、
だから、もちろん外国語はペラペラ。
その後、
益美さんは香港・キャセイパシフィック航空のスチュワーデスさんになり、
エリザベスさん(そう匿名にするように言われた)は全日空の、
エミリーさん(同じく)は、
ドイツ・ルフトハンザのスチュワーデスさんになったそうだ。
世界中の隅々までを飛んで回ったこの三人のおばさんたちは、
超魅力的な人たちで、豊かな感性と話題の広さは天下一品、
話の面白さは壮絶なまでであり、(トニーいわく)うるさいほど饒舌で、
私などヒヨッコなどは、たじたじであったことは言うまでもない。
食事の3時間があっという間であった。
こんなに魅力的なおばさんは滅多にいない。
姿かたちも日頃の研鑽が実っているのか、私よりかなり上であるとはとても思えない。
とても可愛いおばさんたちで、
私は、もっともっと話したかったのだが、
一週間ほど付き合っているトニーはちょっとうんざり気味。
眠たそうな顔をしていたので、
後ろ髪を引かれながらも、ホテルに戻ったのが夜10時。
旨いワインをいっぱい飲んだので、
すぐにベットで眠ってしまったのだが、
やはり時差があるのか、午前1時半に起きてしまい、これを書いている。
またいつか、
あの可愛い魅力的なおばさんたちとお会いして、
いっぱいお話を聞いて、
私は、今一度たじたじになりたい。
このお二人は、
そのキャリアを書けば、みんなびっくり仰天の、
スーパーおばさんたちなのです。
左が『エリザベスさん(そう書けと言われた)』、右が『エミリーさん(同じく)』。
一週間お付き合いすると、きすがにくたびれるらしい。
今日のトニーは静かでした。
奥に写っているのが奥様の益美さん。この人ももすごい人です。
(たじたじになった私の笑顔が、
“こわばって”いるように見えるのは、あなたの“気のせい”です。)
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