谷 好通コラム

2008年01月25日(金曜日)

1831.「会いたい・・・」

「人に会いたいと痛切に思う気持ち」
それを愛すると言うのかもしれない。そう思った。

 

昨日の夜、CDをいっぱい聴いた。
自分が買ってきたものではなく、たまたまあったCDだが、
Tokunaga何とかと言う男性が歌っている「ボーカリスト」という
たくさんの歌をカバーしたCDであった。
私は、昔ほど音楽を聴かなくなったし、テレビの歌番組はまったく見ないので、
有名な歌手であっても私が知らないだけなのだが、
これはいいCDであった。

 

その中に「会いたい。」という曲があった。
ずいぶん前に流行った曲らしい。
何ヶ月前にテレビ聴いて「いい曲だなあ」と憶えていたのだが、
CDでじっくりと聴くのは、今回が初めて。

 

レクエイム?というのか、死んだ人のことを想って書かれた曲だ。
恋人から、一緒になり、何気ない幸福な生活から、
突然、愛する人が死んでいなくなった。
「もう一度帰って来て。
海に連れて行ってくれるって言ったじゃない。
映画にもいっぱい行くって言ったじゃない。
・・・会いたい・・。」
切ない。とても切ない曲で、
聴いていて涙が止まらなくなってしまった。

 

いつも何気ない生活の中で、何気なく一緒にいたり、一緒に働いたり、
話をしたり、思い出したりする人が、
突然、亡くなっていなくなったりしたら、どんなに悲しいだろうか。
どんなに切ないだろうか。
想い出すたびに「会いたい。」って胸が痛くなるのだろう。

 

つい、色々な顔を思い浮かべてしまった。
家族はもちろんだが、
あの人が亡くなったたらと想っただけで
胸が痛くなって悲しくなる人がいっぱいいた。
ここに名前を並べるわけにはいかないが、自分でも驚くほどたくさんの人がいた。
多分、私が心から愛している人たちなのだろう。
あるいは気持ちが通じ合っている人たちなのだろう。
何十人というレベルではない、
次から次への思い浮かんでいって、
その人が黒枠の写真になるたびに悲しくなる。
そんなおバカな空想にとりつかれて、いよいよ涙が止まらなくなってしまったのは、
曲も終わりのころであった。
(私は、一曲の間に速射的に百人以上を空想の中で殺してしまい、悲しんでいたわけだ。)

 

いなくなったら、とても悲しく、
切なくなって涙が出てきてしまう人たち。
そんな彼ら、彼女らに対して持っている気持ちを「愛」というのかもしれない。
人は死んでも、たましいは死ぬわけではないらしいのは救いであるが、
愛する人がいなくなって会えなくなるのはつらい。

 

自分が死ぬのはそれほど怖いとは思わない。
死に差し迫っていないから怖くないだけなのかもしれないが、
とにかく怖くは感じない。
しかし、自分が死ぬまでに、
愛する人がだんだん死んでいって、そのたびに悲しく切なく想うのはつらい。
ならばいっそのこと、
みんなが死ぬ前に自分が死んでしまえばつらくはならないだろうが、
自分が死んでしまうと、
いっぺんにみんな全部と会えなくなるわけなので、
それはそれで、悲しいしつらいなと思う。
それに、自分が死ぬことで、悲しく思う人がいるに違いないので、
それはそれで、我が愛する人たちを悲しませるのもつらいなと思う。

 

もういない人に「会いたいっ」と想うのは、救われようがなくてとてもつらい。

 

 

香港に向かう飛行機の中。
中部空港から香港まで4時間15分だと言っていた。
二つの話を書くのにたっぷりすぎるほどの時間だ。

 

「ラジオ」の話に続いてこれを書いているが、
私は、「会いたい」の曲を聴いて、
神経が「会いたい」という言葉に過敏なってしまったようだ。
これを書いている間も「会いたい。」と文字を打つたびにジンと来てしまう。
誰か、
面白がって、
私の耳元で「会いたい」って囁いてみるといい、
過敏になっている私はきっとジワンとくるだろう。
「会いたい。」がキーワードなって私の涙腺が条件反射のように開いてしまう。

 

しかし、注意したほうがいいのは、
それを見て笑ったら、
そいつはきっと、その辺の硬い物で思いっきりぶん殴られるだろう。
「てめえ、死ねっ!」と怒鳴られながら。

 

(悪い奴ら、絶対やるなよ。ほんとに殴るからな。)

 

 

 

これをアップしようとしているのは、
香港のホテルの中。
明日は香港にオープンする「キーパープロショップ」のオープンセレモニーなのだ。

 

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2008年01月25日(金曜日)

1830.ラジオが鳴っている生活

以前、営業企画の国松君が「自分はいつもラジオを聞いている。」と書いていた。

 

昨日届いたラジオ付きオーディオがすごく気に入ったので、
昨晩はCDをいっぱい聞いたが、
今朝は、テレビをつけずに「ラジオ」をかけて朝食を取った。
今日から香港に行くために早起きをしたので午前6時過ぎ、AMのNHKだ。

 

まるで、大昔に戻ったような時間が流れる。
NHKの朝の放送は何十年も前に聞いたまるでそのままのようだ。
ラジオ体操が始まった。
「へえ~、今もやっているんだ。おんなじだ。」

 

40年以上前に、
私が初めてやったアルバイトが「夏休みの朝のラジオ体操」
大昔の夏休みは、朝早く小学校の校庭に集まって、
みんなで朝のラジオ体操をやったものだ。(いつからかやらなくなったらしい)
小学校六年生の時、
その朝のラジオ体操でみんなの前の演台に立ち、
”模範演技”をするアルバイトをやったのだ。
模範演技と言ったって、ただラジオ体操をするだけで別に上手いわけではない。
毎朝ちゃんと出てくる奴が少なくて、私にお鉢が回ってきただけである。
生まれて初めて働いて稼いだお金であった。
確か、一日50円ぐらいであったような気がする。

 

そんなことを、ラジオ体操の放送を聞きながら思い出した。
ラジオはテレビのように人を「釘付け」にしない。
何かをやりながらでも、話をしながらでも、ラジオは聴ける。
聴くと言うよりも、ラジオは鳴っているという感じだ。
だから、朝ごはんを食べながらでも、
テレビのように気を取られて箸が止まることもないし、
会話がなくなることもない。
久しぶりのラジオを聴きながらの朝食は、
実に爽やかで新鮮であり。
人間らしい食事が出来たような気がした。
ラジオのある生活は、テレビ漬けの生活よりもはるかに文化的であって、
人間らしいコミュニケーションのある生活のようだ。

 

テレビは、家族の会話を激減させ、
見ている人の感性を無視して意識の中にズケズケと乗り込んでくる。
人の文化は、
人と人との相互のコミュニケーションによって作り上げられてきた。
しかし、テレビは向こう側の一方的なコミュニケーションで、
強い刺激を持って人の意識をわしづかみして一方的に情報と刺激を注入してくる。
見る側は、何を見るか、
つまり何を注入されるかを選ぶだけであって、
その選択の基準は「何が面白いか」である。

 

自らが選択した「面白い情報」「面白い刺激」を一方的に注入されることによって、
人は人とのコミュニケーションの能力を著しく落としているのではないか。
とりわけ、与えるコミュニケーション能力が低下しているのではないだろうか。
情報や刺激を一方的に受ける側に立ち続けると、
その時その時の目先の刺激、
あるいは「損得勘定」で物事を判断するようになって、
与える側として必要になってくる相手への思いやりとか、
感謝する気持ちを持つことが出来なくなってしまうような気がする。

 

BOSEは、もう一つ私に新しい生活と文化を与えてくれたようだ。

 

冬の午前6時はまだ暗い。ラジオ体操は家の中でやるということかな。

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    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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