2009年08月05日(水曜日)
2275.「健康な心は健康な体に宿る。」
昨日の午後、とうとう外科の病院に行った。
膝があまりにも痛く100mが歩けない。
一昨日の福岡日帰り出張も空港で車椅子を使う有様で、
歩けなくなっている時、考え方まで妙に縮こまってマイナス的な発想になりそうになる。
一ヶ月前に外科に行ったが、ちょっと良くなったのでそのままにしていたら、
ここ何日間で急にまた痛くなり始めた。
そこでやっとまた昨日、外科に行ったわけだが、
先生は膝を触るなり「これは痛いねぇ」と一言。
ベッドに横になって膝のお皿の横に注射針が刺され、
かなりの時間かかって、膝の“水”が抜かれた。(なかなか痛かった)
抜かれた注射器をかざして「30cc以上抜けましたね。前は10ccだったからね。」
「これで楽になるだろうけど、一週間後にまた来てください。今度はちゃんとね。」
“ちゃんとね”がグサッと刺さる。
誰でも病院は好きではないだろうが、私も嫌いだ。
特に待たされるのが大嫌いで、病気がちょっと良くなるとすぐに行くのをやめてしまう。
しかし今日は、
嘘のように膝の痛みが消えて、
しばらくは膝をかばわなければならないのに、うっかりスタスタ歩いてしまうぐらいだ。
こんなことならもっと早く行けば良かった。
というより、最初の時にきちんと外科の病院に通って置けばよかった。
私は病気を馬鹿にしすぎる。深く反省。
明日の朝、7時半の飛行機に乗って新潟に行き、午後からそのまま東京に入る。
しかし今、無理をするとまたダメになってしまうので、
だだっ広い飛行場では、やっぱり車椅子を使おう。
歩けるのに車椅子を使うのはすごくいやだけど、
何とか回復のプラスの方向に持っていき、
早く全快するためにはいやなんて言っていられない。
恥ずかしいのをしのんで、
出来るだけ歩く事や立っていることを避けなければならないのだ。
膝の痛みが消えて、
うっかりするとスタスタ歩けるぐらいなると、
気力が俄然戻ってくるのは不思議だ。
痛みに気を取られて弱気になっている時は、不思議と、発想がマイナス方向に向く。
弱気になっていると、自分に自信がなくなっているので、
相手にそれが伝わって、自分の言葉に信頼性までがなくなっているのに気がつく。
痛みや不自由が心をも蝕むことを認めざるを得ない。
痛みが去って、
歩けるようになって、
改めて素直にそう認めることが出来る。
「健康な心は健康な体に宿る。」とは、小学校の何かの歌の歌詞にあったが、
私はどちらかというと、賀来部長が好きな「気合と根性」で何でも何とかなると思う口で、
体と健康については「無茶を承知」を身上として来た。
いい歳になって、体力が落ちて来ている事を実感するこのごろ、
「健康な心は健康な体に宿る。」ということがあるのを受け入れつつある。
こいつらの体力と食欲を、貴重なものであることを実感する。
いいなぁ、うらやましいなぁ、
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