谷 好通コラム

2024年10月06日(日曜日)

10.06. やっと本当の秋になったようですが、

10月に入ってもう一週間が過ぎようとしています。

やっと、昼は30℃をほとんど越さなくなって、

お盆前後からの猛暑の連続からはほぼ完全に解放されました。

能登の度重なる大災害から復興に励まれる皆さんにとっても

秋の到来は救いでしょう。しかし、

台風と洪水と秋の組み合わせは、私に伊勢湾台風の記憶を呼び起こします。

 

1959年.今から65年前の9月26日の深夜

名古屋市南区に住んでいた私は小学校二年生の時、

5,000人余の犠牲者を出した「伊勢湾台風」にまともに遭遇しました。

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Wikipediaより

伊勢湾台風(いせわんたいふう、昭和34年台風第15号、台風195915号、国際名:ヴェラ/Vera)は、1959年(昭和34年)9月26日(土曜日)に潮岬に上陸し、紀伊半島から東海地方を中心にほぼ全国にわたって甚大な被害をもたらした台風である。伊勢湾沿岸の愛知県と三重県での被害が特に甚大であったことからこの名称が付けられた。死者・行方不明者の数は5,000人を超え、明治以降の日本における台風の災害史上最悪の惨事となった。

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この時、私は最も被害が大きかった地域に住んでいて、

高潮で決壊した山崎川からの濁流に驚き、

近所の二階建ての建物(私の場合は大生小学校)へ避難の為

道路に出た人々は、濁流に溺れ、

名古屋港近辺の貯木場から溢れ出した巨木(べニア合板の材料)に押し潰され、

かなりの割合で人が死んだ。

私達一家が助かったのも、

父(武)の必死の頑張りと、たくさんの偶然と、間違いなく”幸運”があって、

生後4か月の弟ともども家族全員が助かりました。

台風が去った翌朝、

濁った水に浮く亡くなった人たちの形。

雨戸に乗せられ運ばれる血まみれになった少女。

約二か月ぶりに

避難生活から帰ってきた小学校の教室のいくつもの机の上に

ひとつずつ花束が置かれていました、しかし

花束の机に座っていた子は死んだという事に気が着くまでに時間がかかりました。

7歳の子供の時の記憶なのに、

あの一時期の記憶だけは妙にはっきりしています。

 

今、思うと、

あの時、私は、実は死んだのかもしれません。

今の私は、私のもう一つの運命の中の私なのかもしれません。

何を言っているか自分でも訳が分かりませんが、

そんな気がして、

ただ生きているだけ、

無事に生きているだけではいけないような気がするのです。

ただ生きている事を楽しんでいては、いけないような気がするということです。

変なオカルト的な意味とは全く関係なく、

勝手にそう思っているだけです。

私の人生を引っ張ってきた”幸運”は、あの時に始まった。

という勝手な思い込みが私の中にあって、

秋になると思い出す「勝手な怖いもの無しの思い込み」は、

私の人生に付きまとっています。

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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