2025年02月11日(火曜日)
02.11. 自分は、家族と、多くの仲間と、他人と、一緒に生きて、
自分が生きているという事は、
物が見えたり、聞こえたり、
声を発したり、匂ったり、痛かったり、
悲しかったり、嬉しかったり、
くすぐったいとか、痒かったり、
怒れたり、感動したり、
恋をしたり、美味しかったり、怖かったり、
ワクワクしたり、快感だったり、憎んだり、眠かったり、
それぞれに生きているという実感を持つ。
人は自分が何らかを感じる事によって自分が生きている事を実感する。
言い方を変えると、
自分が生きている事を実感するのは、何かを感じる時。
あるいは、
こんな事を考えている事自体が生きている証なのだろう。
しかし、逆を言えば、
たとえば、熟睡している時は何も感じないし、
たとえば、手術を受ける時の全身麻酔では、それこそ何も感じなくなっている。
その時間は、人は死んでいる事と同じなのか、
あるいは、人が死ぬという事は何も感じない時間が永遠に続くという事なのか。
一体、生きているという事は、どういう事なのか、
一体、死ぬという事はどういうことなのか。
死とは永遠に無になるということなのか。
永遠にという事ならば、地球が生まれてから46億年というが、
永遠という時間の中では、
その46億年すらもゼロに等しい訳なので
その人生の限られた時間とは、
自分にとってどういう事なのか。
永遠の中では限られた時間とはゼロに等しい訳なので、
ゼロならば、それは無という事。
無ならば、
それは死のはずだが、
私は今、たくさんのことを感じ、考えて、確かに生きている。
・・・・・
この矛盾はなんだ。
私が生きているという事は、私の勘違いなのか。
私は勘違いで、うっかり生きているのか。あるいは錯覚なのか。
いや、勘違いや錯覚などではないだろう。
確かに私は、今、考えているし、感じてもいる。
だから、間違いなく生きている。
では、感じ、考えている私とは一体何なのだろうか。
いわゆる「魂」というものなのだろうか。
私は「私という魂」なのだろうか。
だとしたら、きっとそれは質量のない物なのだろう。
この空間には質量のない光子とかもあるのだから、質量のない魂もあっていい。
だんだんわからない話になっていくから、もうやめた方がいい。
とはいっても、
私という確かな自覚があるからには、
それが魂なのかはよく分からないが、
私という存在は、私にとっては間違いなく有る。
ならば、私に見えている他人、私の耳に聞こえてくる声の他人。
自分以外の他人には、自覚が有るのだろうか。
他人にも「魂」があって、自分と同じ”存在”なのだろうか。
他の人も自分と同じような反応をするし、
同じような発言をするし、行動をしているので、
自分には、他人も自分と同じように自覚がある存在であるように思えるし、
ほとんどの人が、
他人も自分と同じ存在であると自然に思っている。
しかし、よく考えてみれば
自分には、自分という自覚があるという証があるが、
他人にも自覚があって存在であるという自覚を、自分には持ちようがないので、
他人も自分と同じで存在であると確かめる術はない。
しかし、もちろん、
ほとんどの人が、
他人も自分と同じ存在であると自然に思っている。
しかし、中には、
他人も自分と同じで存在であると確かめる術が自分には無いのだから、
「魂」という存在は自分だけであって、
他人は、自分に似ていて、自分と同じように振る舞ってはいるが、
他人は自分とは全く違うもの。自分だけが自分にとっての存在であって、
他人は、自分にとって自分以外の全てのものと同じ「物」であったり、
「獣」「植物」「自然」と同じ意味の、
単なる自分をとりまく要素でしかないという感覚を持つ人もいる。
ある人は、他人はすべて外敵であると言う。
自分だけが他人を殺し、苦しめ、不幸にする資格がある絶対的存在と言う。
それはある時は独裁者であり、大虐殺をも行う残忍な政治家でもある。
そういうこともあり得る。
しかし、
自分という「存在」が、他人という「存在」を愛し、
他人という存在から愛された自覚があるならば、
他人も自らの存在と同じく愛すべき重き存在であると、
実感し、強く自覚しているので、
自分は、家族と、多くの仲間と、他人と、一緒に生きて、
共に暮らし、共に感じ、愛し合いたいと思うのが、幸せなのだと思う。
私は自分という存在を自覚できても、
他の存在を同じようには自覚しようもないが、
他人を愛し、愛されている自覚は、はっきりと自分の中に確認できるので、
自分は、家族と、多くの仲間と、他人と、一緒に生きて、
共に暮らし、共に感じ、愛し合いたいと思うのが、幸せなのだと思うのです。
そしてもう、それほど残された時間は多くはなく、いずれは死ぬが、
それで無になるか、魂として自覚が残るのか、
他の肉体に転生して今の自覚を失い、違う自覚を持つのか。
まったく分からないが、
いずれにしても、それが私以外の他人でも、
ひょっとしたら、人間以外のいずれかの動物、生き物であったとしても、
それとも、死が全く想像しなかった結果であったにしても、
たぶん、それが一番良かったのだろうと思うのです。
今日、会社にLABOに関わる有志が集まって、
今後のKeePer LABOの急速な増店に控え、
直営店の者にも、また特にFC店の増加に備えて、
KeePer LABOの研修の内容について、突っ込んだ話し合いを進めました。
私は、自らが動き始めるみんなを見ていて、話を聞きながら、
上記のような文章を、内職で書いていました。
幸せなひと時
みんな、真剣です。
2025年のスーパーGT #38 KeePer CERUMOのカラーが決まってきました。
2月19日オープンの新店KeePer LABO戸塚原宿店の地域指定のDMの原稿が出てきました。
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