2024年01月24日(水曜日)
01.24.前話の続編。みんなが生き残るのか、みんないなくなるのか。
50年前、現金安の看板を上げた翌日から現金客がどっと増えて、売り上げは二倍から三倍、四倍とどんどん上がっていって、会社からは褒めされた。しかし、私は、あの時の事は、嬉しい思い出として残っていない。
50年前のガソリンスタンド業界は、ブロック会での何気ない会話で、お互いに足を引っ張るような安売りはやめようと暗黙の内に示し合って、零細規模のガソリンスタンドの親父が、無数、平和に暮らしていた。
そこに私は”安売り”という必殺技を振り回して乱入、自分が一番多く売りたい、儲けたい。と、一瞬に平和をかき乱した。それは結果的に消費者に安くガソリンを提供したことであり、非難されることではない。それに現金安の看板を出したのはこの地方としては私が初めてであったが、全国レベルでは最初ではなかった。この後の時代、日本国中に安値看板のガソリンスタンドが溢れたことを考えると、平和を乱したのは私ではなく時代の流れであったのであろう。
ガソリンスタンドは、燃料という厳しく規格の元に造られた付加価値が画一の商品を販売する商売です。隣の店と全く同じ付加価値の商品を売る商売とは他を見てもそう多くはありません。商品そのものでは競争出来ないのです。だから競争するとしたらその商品を提供する時の「接客の良さ」「便利さ」「値段」、その中でいちばん強烈なのはもちろん「値段」です。店頭価格を安くするだけで即実行でき、「接客の良さ」のように絶え間ない努力も必要ないし、「便利さ」のように知恵もコストも要らない。他店よりも安くするだけでいい。他店より安く売って、他店よりたくさんの数を売ればいい。それだけです。同業者からは平和を乱す者として悪者扱いですが、消費者からは歓迎されます。お客様から支持されたものが勝ちであり、負けた者は淘汰され勝者が生き残ります。
しかしサステナビリティが叫ばれている今、みんなが生き残るために何をすべきなのか、みんなが生き残るために何をどう変えなければならないのかを、今、皆で考えています。地球の気候温暖化問題は生き残る勝者も敗者もない。みんなが生き残れれば勝ちであり、負ければ誰も生き残れないのでしょう。勝者だけが生き残るという淘汰の論理が通用しないのだから、根本的な発想の転換が必要なのかもしれません。
50年前のことを思い出していて、そんなことを考えました。
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2024年01月23日(火曜日)
01.23.古き良き時代の仲良し倶楽部に、吹っ切った19才店長がやったこと
19才の私は、とっても小さなガソリンスタンドに店長として着任しました。その頃(約50年前)のガソリンスタンド業界は、第一次石油パニックの前でもあり、実に平和な仲良し倶楽部のような業界でした。毎月、石油商業組合の末端組織である「ブロック会」が10人ぐらいで開かれ、そこに集まるのはガソリンスタンド1軒か2軒を経営する「親父」的な人がほとんど。多くのチェーン店を持つ会社の1店舗を担当する「若いサラリーマン店長」は私を含めて小数派で、多くの親父達の中ではまるで「小僧」扱いです。
そのブロック会での主要な話題は「値段」。店頭での現金販売価格と大口・小口の掛売り先販売価格をなにげなく皆で仲良く座談会。掛け売りの価格はともかく、店頭現金価格は決して抜け駆けして安売りに走らないように何気なくお互いにけん制した。あくまでも、何気なくだ。当時は、現金販売価格が一番高く会社関係の売掛価格は何円か安く売るのが慣例だった。掛売りの方が集計の手間や請求書発行の手間・経費を考えると、むしろ高くなるはずだが、売掛客はご贔屓様という事で一見さん(現金客)よりサービス価格という意味だろう。そんな喧嘩せずに皆で仲良く生きて行こうという平和な世界だった。
しかし、その時、私が所属していた会社は新興の会社で、他店よりも安く売ってゴリゴリと売り上げを上げていくタイプの会社の店で、平和な仲良し社会に急に舞い降りたようなものだ。更に私は「どうせ小さな店だから、お前の好きなようにやって見ろ」と言われている。最初は私も平和に店長をやっていたが、営業会議のたびに「ちっとも売り上げが上がっていない。お前は仕事をやる気があるのかっ!。」と叱咤されていた。
19才の私は、ある時、何か吹っ切れたように店頭に大きな看板を上げた「現金が安い!。名古屋で二番目に安い!!」。そして、本当に大口掛売り客の安い値段より2円安く現金客にガソリンを売った。(一番と書かずに二番目に安いと書いたのは、私に何かためらいがあったのだろう。)
すると、安値看板を上げた翌日から現金客がどっと増えて、売り上げは二倍から三倍、四倍とどんどん上がっていって、会社からべた褒めされた。
がしかし、私は、あの時の事は、ちっとも嬉しい思い出として残っていない。
いま思うと、むしろ、つらい。
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2024年01月22日(月曜日)
01.22.19才. 深夜勤務を一年間連続は、生物的に無理があった。
時給の高いトラックステーション(トラック用軽油の給油が多い大型ガソリンスタンド)の深夜勤務(深夜1時~翌朝8時迄)に就いてからは何もかもが楽しかった。トラックの運転手さんは皆さん気さくで、一見ガサツなようで皆やさしかったのです。お互いの現場の苦労や喜びを肌で感じるようで、お互いに認め合うように優しかったのです。あの頃の体験が私の中に根付いていて、私は未だに現場が大好きで、現場にこそ本物があって、真実もあると今も思っています。逆に、現場に行きもせず、話しもせず、見もせず、知りもしないで、雲の上から見下すようにしらじらしく語る事は大嫌いです。
この時の私は深夜の勤務でしたが、私は元々徹夜など平気で、仕事は大変でしたが楽しくて、本当に一生懸命働きました。しかし、これを一年間も続けた頃には、なぜか体調がおかしくなりました。深夜勤務が終わって、朝から眠ろうとしても全く眠れなかったり、夕方から寝た時には深夜近くなっても起きれなかったり、深夜の仕事中に強烈に眠くなったり、眠る時間を自分でコントロール出来なくなってしまったのです。すると、いつも眠かったり、逆にいざ眠ろうとしたら全く眠れなくなっていたりで、これが続くとすごく辛くなりました。人間はやはり夜行動物ではなく厳然たる昼行動物であったことを自らの体で立証したようなもので、昼の仕事にしたもらいたいとお願いしたのです。
“昼”勤務になって数か月目、深夜勤務時の私の働きぶりを認めてくれた会社から「今度、小さなガソリンスタンドをやる事になったので、その店を店長でやって見たらどうか。」と言われたのです。当時勤めていたトラックステーションは規模も大きく、店長にと言われたその小さなガソリンスタンドは面積で5分の一、取扱量で百分の一足らずの何もかもすごく小さな店、私は完全に舐めてかかり軽い気持ちで店長を引き受けました。 まだ19才の時です。
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2024年01月22日(月曜日)
01.22.最初の応募動機は「時給が一番高かったから」
アイスクリームを運ぶトラック運転手のアルバイトを一か月でクビになった私は、次のアルバイトを探しました。家の近所に「○○石油トラックステーション深夜給油アルバイト募集 時給〇△×〇円」の書いた看板が立っていました。その時給は自分が知っている限り一番高かったので、私は迷うことなくそのバイトに応募したのです。
しかし考えてみれば、その時がガソリンスタンドとの関わりの最初でした。今のKeePer技研㈱はカーコーティングに関わる仕事ですが、その供給先で一番多いのがKeePer PRO SHOP(全国に約6,500か所)という技術認定店で全国のガソリンスタンドが中心です。それは私が起業する前職がガソリンスタンド勤務であったことが深く関係しているのですが、そのガソリンスタンドとの最初の関わりの動機が「時給が一番高かった」からだったのです。
しかし、この会社の関東の営業部長も最初はそうだったと言っていましたし、会社で一番多い人数の部下を持っている東日本のKeePer LABO部長も同じように言っていました。更にこの会社のトップの一人である専務だって最初はこの会社のアルバイトでしたから、最初は「時給が一番高かったから」と言うかもしれません。この会社への応募動機が、この事業に未来を感じ社会的な意義を見出したからなんて高尚なものではなく、最初は「時給が一番高かったから。」とは、情けないようですが案外そうばかりでもありません。
私も含めてみんなに共通して言えることは、皆「同じ給料をもらうなら出来るだけラクをした方がトクだ。」という発想が全く無い者達です。その反対に「どうせ働くならば高い給料を取って全力で働き、認められるような成果を出したい。勝ちたい。」と、思っている者達で、放っといても全力を出す種類の人達だから、彼らを信頼して要職に充てているものです。
人の能力とは、その人が持っている知能的な意味も含めたフィジカルとしての能力より、「ラクをした方がトクだ」の対極の「自分が出せる目いっぱいの成果を出したい。」という価値観の持ち主であるかの方がずっと重要な要素と言えるはずです。だから最初の応募動機が「時給が一番高かった」があながち✖とは言えないと思うのです。
だからと言って、この会社では面接で「時給が一番高かったから。」と言えばそれでOKかどうかかは、ちょっと別ですが・・。
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2024年01月21日(日曜日)
01.21.ちょっと昔、海が見える家に住みたいと思った事がありました。
今日は昼前に家族で映画を見に行きました。
映画は「ある閉ざされた雪の山荘で」という、ちょっとしたミステリーもので、
大掛かりなロケもなく、大きな海辺の別荘の建物の中だけで撮られていて、
有名スターも出ていず、出ているのは若手の劇団員役ばかりの
いかにも制作費がかかっていない手造りっぽい映画でした。
上映時間がちょうど昼前からだったのでたまたま見た映画だったのです。
ところが、これが意外と面白く、
どんでん返しの最後のシーンでは、本気で感動し、また涙ぐんでしまいました。
私はいよいよ年を取ってきたのでしょうか。
すぐに感動して、すぐに涙が出てしまいます。
特に若い人の熱が入った演技にはいちころです。
だから感動したのかもしれませんが、
「ある閉ざされた雪の山荘で」は、とてもいい映画でした。おススメです。
見に行った映画館は、いつもみんなで行く阿久比ユナイテッドシネマ。
そこへは知多半島道路に乗って行くので、
帰りは、その知多半島道路で、半島の先っぽ「師崎(もろざき)」に行きました。
海が見たかったのです。
私は昔、昔と言ってもほんの6~7年前ですが、
真剣に海が見える家に住みたくなって、中古物件を探したことがあります。
バブルの頃に企業が福利厚生施設として競って造った「海の家」が、
今はもうほとんど利用されず、
空き家同然になっている物件がいくつもあったのです。
しかし十件ぐらいの物件を見たところで、飽きてしまったのでしょうか、
海が見える家に住むこと自体に熱が冷めてしまい、
結局、いまだに会社の近くに住んでいます。通勤時間は昔から5分。
このラクチンさに
「海が見える。」ロマンが負けて、私のズボラの勝った訳です。
久しぶりに見た海は、風があってとてもキレイでした。
海ごしの向こうには伊勢の山々が見えます・
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