2025年02月15日(土曜日)
02.15. 三十年前からの博多の楽しみ、旭軒の餃子。
昨日から博多に来ています。博多のホテルに泊まって、
朝、地元の地区担当佐伯君に迎えに来てもらって
長崎に走り
2月1日にオープンした新店「KeePer LABO長崎時津店」に行きます。
ならば、昨日のうちに長崎に入っていても良かったのですが、
博多にはもう一つの目的がありました。旭軒の餃子です。
博多に前泊して旭軒に行こうという魂胆です。
キーパーの営業で博多に通い始めたのは約30年前。
あの頃、私は全国各地に営業に回っていて、
それぞれの街に、出張の楽しみともいえる食の店が必ずあった。
仙台ならば「うまいもの処今井」、
東京ならば昼喫茶・夜居酒屋の「はつみ」、
広島なら広島焼の「大福」、
秋田は店の名前は忘れたが「きりたんぽ」の店、
多くはもう忘れてしまったが、
博多は断然「旭軒」の餃子であった。
ここには博多に泊まれば必ず行った。
メニューは、酒はビールから焼酎、日本酒などズラッと揃っているが、
料理は「焼き餃子(水餃子)」「手羽先」「めし」だけであった。
いわゆる餃子屋だ。
ここの餃子は変わっていて、すごく小さいだけでなく独特の味で、
あとで知ったのだが、ニンニクが入っていないのだそうだ。
だからか、いくらでも食べられる。
最初に焼き餃子を注文して、
焼けるのを待つ間に、用意してある手羽先を食べて、
焼き餃子は、まず一人3人前を注文するのが”通”で、
それはペロッと食えてしまう。
そうしたら、次は水餃子行くか、
続けてもう焼き餃子2人前ぐらい頼むか、迷うところだが、
今日は久しぶりで、私は年取って食が細くなっているので、
水餃子に行きつけないといけないので、
まず、水餃子を1人前頼んだ。
ここで終わるかと思ったが、
今日は調子がいいのか、おかしいのか、
そこからまた焼き餃子3人前に行ってしまった。
食べ過ぎである。
その間に生ビール中、芋焼酎湯割り2杯、芋焼酎ソーダ割2杯を飲んでいる。
明らかに飲み過ぎ、食べ過ぎである。
しかし、
私のことを覚えていてくれたオヤジさんと、
年を取るまでにやった病気の話とか、
コロナで死にそうになった話とかを聞いている内に、
また焼き餃子を食べたくなってもう2人前を食ってしまった。
それでも苦しいとか、気持ち悪いとかにならなかった。
ここの餃子は、たぶん野菜だけなのだろうか。
いくら食べても食べ過ぎになったことがない。
オヤジさんは、相変わらず元気であった。
今、71歳だという。
私より一つ下だったとは思わなかった。
店は息子さんに譲っていて、ご自分はもうフルタイムでは店に出ず、
一日に何時間か、体の調子を見ながら好きなだけ出ているのだそうだ。
私も、朝10時か11時の出勤で、夜は午後6時前後には退社する。
昔から考えたら半分くらいの労働時間で体力的にちょうどいい。
なので、オヤジさんと「いっしょだね~」とうなずきあった。
ムチャクチャ楽しかった旭軒の餃子でした。
Posted パーマリンク
2025年02月14日(金曜日)
02.14. 10年前、上場した翌日に読んだ話「メキシコの漁師の話」
10年前、東証マザーズに株式上場して浮かれていた翌日
こんな話をメールで送ってきてくれた人がいました。
キーパープロショップ発祥の人、酒井さんです。
————————————————————————————————
「メキシコの漁師の話」
メキシコの田舎町。
海岸に小さなボートが停泊していた。
メキシコ人の漁師が小さな網に魚をとってきた。
その魚はなんとも生きがいい。
それを見たアメリカ人旅行者は、
「すばらしい魚だね。どれくらいの時間、漁をしていたの」 と尋ねた。
すると漁師は
「そんなに長い時間じゃないよ」と答えた。
旅行者が 「もっと漁をしていたら、もっと魚が獲れたんだろうね。おしいなあ」と言うと、
漁師は、「自分と自分の家族が食べるにはこれで十分だ」と言った。
「それじゃあ、あまった時間でいったい何をするの」と旅行者が聞くと、
漁師は、
「日が高くなるまでゆっくり寝て、それから漁に出る。」
「戻ってきたら子どもと遊んで、女房とシエスタして。」
「 夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって…
ああ、これでもう一日終わりだね」
すると旅行者はまじめな顔で漁師に向かってこう言った。
「ハーバードビジネススクールでMBAを取得した人間として、きみにアドバイスしよう。」
「いいかい、きみは毎日、もっと長い時間、漁をするべきだ。 それであまった魚は売る。」
「お金が貯まったら大きな漁船を買う。そうすると漁獲高は上がり、儲けも増える。」
「その儲けで漁船を2隻、3隻と増やしていくんだ。やがて大漁船団ができるまでね。」
「そうしたら仲介人に魚を売るのはやめだ。自前の水産品加工工場を建てて、そこに魚を入れる。」
「その頃にはきみはこのちっぽけな村を出てメキシコシティに引っ越し、
ロサンゼルス、ニューヨークへと進出していくだろう。」
「きみはマンハッタンのオフィスビルから企業の指揮をとるんだ」
漁師は尋ねた。
「そうなるまでにどれくらいかかるのかね」
「二〇年、いやおそらく二五年でそこまでいくね」
「それからどうなるの」
「それから? その時は本当にすごいことになるよ」
と旅行者はにんまりと笑い、
「今度は株を売却して、きみは億万長者になるのさ」
「それで?」
「そうしたら引退して、海岸近くの小さな村に住んで、」
「日が高くなるまでゆっくり寝て、 日中は釣りをしたり、」
「子どもと遊んだり、奥さんとシエスタして過ごして、」
「夜になったら友達と一杯やって、ギターを弾いて、歌をうたって過ごすんだ。
どうだい。すばらしいだろう」
人生は遊びではないですが、労働でもありませんよね。
遊びと仕事の違いは、遊びは自己満足なのに対して、仕事って「人の役に立つ事」ことですよね。
もちろん、仕事には利益が必要ですが、その度合いはその仕事の目的によって違うだけです。
金儲けのために行う労働は、結局、メキシコの漁師のような話になってしまいます。
仕事は
二人称三人称でないと成り立たないもので、つまり人と関わる事すべては『仕事』なんですね。
そういう意味で、目的がある訳ですから、
社長は、引退なんてできない!一生仕事をするんだろうな〜と思っていましたよ。(笑
——————————————————————————————
そうですね。
仕事には、意識、無意識にかかわらず、”目的”があります。
その結果、たくさんの人から支持をいただいて、仕事がうまくいって、
株式の上場までさせていただきましたが、
そこから得られたお金やもので、
“楽”をしようとか、”贅沢”をしようと一応、色々考えたのですが、
そのどれもが欲しいものではないことに気付いて、イライラしました。
しかし、
仕事そのものに目的があるのだから、
“働いて”、それでいいのです。
たぶん、死ぬまで現役で馬車馬の様に、働いて、それでいいのでしょう。
「メキシコの漁師の話」で、また納得しました。
「死ぬまで馬車馬の様に、働いて」と口に出すと、涙が出てきます。
だから、それがいいのでしょう。
たぶん、私はそうしたいのでしょう。
以上、10年前、上場して三日後に私が書いたブログの一部です。
あの時に比べると、株価は確実に10倍以上になっていて、
株式の配当もあって、私の所得も何倍かになって、
昔に比べたら裕福になりました。
それに比して私は贅沢をしているかと言えば、そんなことはありません。
相変わらず、仕事をしているのが一番楽しいようで、
休みの日も、相変わらず苦手です。
食べるものも相方の作ってくれる食事は野菜中心で、
高級食材とはとんと縁がありません。
みんなと飲みに行っても相変わらず火鍋程度です。
自分の価値基準は、10年前も、
たぶん50年前もほぼ変わっていません。
あの頃から、
私はみんなと働いていれば十分に満たされていて、
今も、「死ぬまで馬車馬の様に、働いて」と口に出すと、涙が出てきます。
本当にそうしたいのでしょうね。
博多に向かう新幹線の中から「岡山」での夕日
Posted パーマリンク
2025年02月13日(木曜日)
02.13. 昨日から今日にかけて何枚かの写真。
今日は、午後の営業会議の後、
新車営業部の連中と「火鍋」に行って、
お酒を飲んで酔っ払い、何か文章を書くことが面倒くさくなったので、
写真を並べておしまいです。
酔っ払ったのだから、仕方がないのです。
昨日、半期決算報告会が終わってから、
隣の東京証券取引所のビル越しに空と雲がとってもキレイでした。
東京からの新幹線の中から、
畑にかかった大きな雲がとても迫力いっぱいでキレイでした。
朝市のIRリモート取材が、先方の体調不良でキャンセルになり、
意外な時間が社長と一緒に空いて、いい話が出来たのですが、
他の話をしている内に、それが何だったのか忘れてしまいました。
でも、とってもいい話であったことだけは覚えているので、
思い出したらまた書きましょう。
午前中のもう一つの仕事、
KeePer TIMES 三月号の編集会議、
1時間取ってあったのですが、
みんなが考えてきていたので、30分足らずで終わりました。
こういう時は、いい記事がいっぱいの号になるのです。
編集を高頭してくれている坪井さんが「一日早いのですが」と言って、
バレンタインチョコの詰め合わせを、みんなにプレゼントしてくれました。
それから、KeePerが応援している女子レスリングの二人が、
二人とも「天皇杯」に優勝したので、その報告に来ました。
とっても嬉しそうでした。
私たちもこんな時は心の底から喜べます。
それが終わったら、スタジオの方で営業会議です。
今日は、KeePer PRO SHOPなどを担当するアフターマーケットと、
新車ディーラーなどを担当するグループの合同の会議となり、
内容の充実した会議になりました。
しかし、こんな時は、集中しているので写真を撮り忘れるものです。
アフターマーケットの責任者たちは、
明日、中央トレセンで開かれる
超大手の石油販売会社の技術コンテスト全国大会の準備の為に残りましたが、
新車マーケットなどの担当の責任者達とは、ご飯を食べに行こうとなり、
毎度の「火鍋」になって、また、酒を飲んでしまいました。
しかし、また火鍋の写真をとっても面白くないので、
外販部の勝本マネージャーと関口課長が並ぶと、
同じ人類と思えない程に顔の大きさが違っていて面白かったので撮りました。
今、FC店が今後、大幅に増える事を念頭に
新しく分かりやすいマニュアル造りをしています。
そのマニュアルは、イラストを多用していく予定なので、
イラストを描いてくれる人を選ぶために、何種もサンプルをもらいまし
その中で、こんなイラストを描く人を選びました。
EXキーパーは、施工されたお客様が本当に喜んでくれるので、
それをテーマにした新しいポスターを造りました。
私は、ちょっと気に入っています。
Posted パーマリンク
2025年02月12日(水曜日)
02.12 今日は、10年前の2月12日、東証マザーズに上場した日。
今日は東京、
午前中に東京での会議をやった後、
午後からは、2025年度上半期決算の決算説明会を、
兜町の東京証券取引所脇のアナリスト協会のビルで行いました。
午前中に会議の為にお邪魔した先方の会社の方から、
「上場10周年おめでとうございます。」とのっけに言われ、
私たち側6名、全員ポカンとしてしまいました。
誰も気が付いていなかったのです。
本来ならば誰かが気が付いていて、何らかのセレモニーとか、
「感謝の宴」でも開いて、祝わなくてはいけないのですが、
誰もそんなことを言い出すようなそぶりもありません。
上場そのものは一つの区切りであり、
誕生日とか、いわゆる祝うような事ではないという事でしょうか。
そう思えば、
そんなような気もします。
私はもともと儀式のようなことをするのが苦手だったので、
何気なく、やり過ごすのが、この会社の流儀になっているのかも知れません。
私も、東京から早く帰って来て、
午後8時には帰宅、家族と熱燗で乾杯して、もう満足しています。
私は、自分で言うのもなんですが、クールというのか、淡泊というのか、
そんな私をそっとしておいて、皆どこかで乾杯をしているのかも知れません。
いやいや、絶対そんな事はありませんね。
う~~~~ん、そうですね。
やっぱり、そんな事はありませんね。
そんなことを考えながら、家族と酔っ払った上場10周年の夜でした。
10年前の今日。
Posted パーマリンク
2025年02月11日(火曜日)
02.11. 自分は、家族と、多くの仲間と、他人と、一緒に生きて、
自分が生きているという事は、
物が見えたり、聞こえたり、
声を発したり、匂ったり、痛かったり、
悲しかったり、嬉しかったり、
くすぐったいとか、痒かったり、
怒れたり、感動したり、
恋をしたり、美味しかったり、怖かったり、
ワクワクしたり、快感だったり、憎んだり、眠かったり、
それぞれに生きているという実感を持つ。
人は自分が何らかを感じる事によって自分が生きている事を実感する。
言い方を変えると、
自分が生きている事を実感するのは、何かを感じる時。
あるいは、
こんな事を考えている事自体が生きている証なのだろう。
しかし、逆を言えば、
たとえば、熟睡している時は何も感じないし、
たとえば、手術を受ける時の全身麻酔では、それこそ何も感じなくなっている。
その時間は、人は死んでいる事と同じなのか、
あるいは、人が死ぬという事は何も感じない時間が永遠に続くという事なのか。
一体、生きているという事は、どういう事なのか、
一体、死ぬという事はどういうことなのか。
死とは永遠に無になるということなのか。
永遠にという事ならば、地球が生まれてから46億年というが、
永遠という時間の中では、
その46億年すらもゼロに等しい訳なので
その人生の限られた時間とは、
自分にとってどういう事なのか。
永遠の中では限られた時間とはゼロに等しい訳なので、
ゼロならば、それは無という事。
無ならば、
それは死のはずだが、
私は今、たくさんのことを感じ、考えて、確かに生きている。
・・・・・
この矛盾はなんだ。
私が生きているという事は、私の勘違いなのか。
私は勘違いで、うっかり生きているのか。あるいは錯覚なのか。
いや、勘違いや錯覚などではないだろう。
確かに私は、今、考えているし、感じてもいる。
だから、間違いなく生きている。
では、感じ、考えている私とは一体何なのだろうか。
いわゆる「魂」というものなのだろうか。
私は「私という魂」なのだろうか。
だとしたら、きっとそれは質量のない物なのだろう。
この空間には質量のない光子とかもあるのだから、質量のない魂もあっていい。
だんだんわからない話になっていくから、もうやめた方がいい。
とはいっても、
私という確かな自覚があるからには、
それが魂なのかはよく分からないが、
私という存在は、私にとっては間違いなく有る。
ならば、私に見えている他人、私の耳に聞こえてくる声の他人。
自分以外の他人には、自覚が有るのだろうか。
他人にも「魂」があって、自分と同じ”存在”なのだろうか。
他の人も自分と同じような反応をするし、
同じような発言をするし、行動をしているので、
自分には、他人も自分と同じように自覚がある存在であるように思えるし、
ほとんどの人が、
他人も自分と同じ存在であると自然に思っている。
しかし、よく考えてみれば
自分には、自分という自覚があるという証があるが、
他人にも自覚があって存在であるという自覚を、自分には持ちようがないので、
他人も自分と同じで存在であると確かめる術はない。
しかし、もちろん、
ほとんどの人が、
他人も自分と同じ存在であると自然に思っている。
しかし、中には、
他人も自分と同じで存在であると確かめる術が自分には無いのだから、
「魂」という存在は自分だけであって、
他人は、自分に似ていて、自分と同じように振る舞ってはいるが、
他人は自分とは全く違うもの。自分だけが自分にとっての存在であって、
他人は、自分にとって自分以外の全てのものと同じ「物」であったり、
「獣」「植物」「自然」と同じ意味の、
単なる自分をとりまく要素でしかないという感覚を持つ人もいる。
ある人は、他人はすべて外敵であると言う。
自分だけが他人を殺し、苦しめ、不幸にする資格がある絶対的存在と言う。
それはある時は独裁者であり、大虐殺をも行う残忍な政治家でもある。
そういうこともあり得る。
しかし、
自分という「存在」が、他人という「存在」を愛し、
他人という存在から愛された自覚があるならば、
他人も自らの存在と同じく愛すべき重き存在であると、
実感し、強く自覚しているので、
自分は、家族と、多くの仲間と、他人と、一緒に生きて、
共に暮らし、共に感じ、愛し合いたいと思うのが、幸せなのだと思う。
私は自分という存在を自覚できても、
他の存在を同じようには自覚しようもないが、
他人を愛し、愛されている自覚は、はっきりと自分の中に確認できるので、
自分は、家族と、多くの仲間と、他人と、一緒に生きて、
共に暮らし、共に感じ、愛し合いたいと思うのが、幸せなのだと思うのです。
そしてもう、それほど残された時間は多くはなく、いずれは死ぬが、
それで無になるか、魂として自覚が残るのか、
他の肉体に転生して今の自覚を失い、違う自覚を持つのか。
まったく分からないが、
いずれにしても、それが私以外の他人でも、
ひょっとしたら、人間以外のいずれかの動物、生き物であったとしても、
それとも、死が全く想像しなかった結果であったにしても、
たぶん、それが一番良かったのだろうと思うのです。
今日、会社にLABOに関わる有志が集まって、
今後のKeePer LABOの急速な増店に控え、
直営店の者にも、また特にFC店の増加に備えて、
KeePer LABOの研修の内容について、突っ込んだ話し合いを進めました。
私は、自らが動き始めるみんなを見ていて、話を聞きながら、
上記のような文章を、内職で書いていました。
幸せなひと時
みんな、真剣です。
2025年のスーパーGT #38 KeePer CERUMOのカラーが決まってきました。
2月19日オープンの新店KeePer LABO戸塚原宿店の地域指定のDMの原稿が出てきました。
Posted パーマリンク