谷 好通コラム

2024年02月20日(火曜日)

02.20. 24話. 月末の魔術師が、ただ一度たけメイン銀行を変えた事。

二軒目用の土地を買ったが、洗車などだけで運営しなければならなった時がありました。しかしそれがきっかけでコーティングと洗車のビジネスが始まったのだから、今となっては良かったのです。しかしその後、1号店の目の前に出来たスタンドとの安売りの血みどろの戦争があって、資金的に非常に苦しく、月末に金がない時代が何年か続いたことがあります。しかし金に余裕が無くても、仕入れの支払い絶対にはせねばならないのは当然であり、また、従業員の給料を遅配でもすれば、不安が拡がって辞めてしまうので、従業員への給料は必ず払っても、何か月間か、私と連れ合いの給料だけ出せなかったことがありました。そんな時も、連れ合いは文句一つ言わずに一緒に働いてくれたが、何十年か後、経営が楽になってから「あの時は一番働いている自分達だけが給料無しで、とても悲しかった。」と言いました。

そんなに支払いには大変だったが、従業員への給料の遅配は一度もなく、仕入れの支払いも一円も削らず期限通りに必ず現金で払った。そんなことは、事業をやって行く上では当たり前だが、あの時に、自分の給料欲しさに、支払いを少しでも滞ったり、不当に値切ったりしていれば、この会社の今は、絶対に無かったと言っていい。だから、あれはあれで本当に良かったと思っています。

私はあの頃、自分を「月末の魔術師」と呼んで笑っていました。月末の何日か前から月末の支払う金額と手持ちの金、これから入る予定の金を計算して、月末までに都合をつけるべき金額を計算して、必要ならばカードローンなどで金を用意し、月末にはピタッと支払いを終えたのです。無事、支払いが済んで月末が終わった時の預金残高が15円だったこともあります。それで、自分の事を「月末の魔術師」と笑って言った訳です。

 

そんな時代には、当然借金もしなければならず、かと言って、まだまとまった借金が出来るほど会社の信用もなく、数百万円レベルの借金を細かく何度も借り入れをして、返済してまた借りる。俗にいう自転車操業であった。

そんな綱渡りの経営だった頃、○○信用金庫の次の借入れ実行日が、10日後に迫っていた時、融資担当の○○次長に「今度の融資の実行、大丈夫ですよね。」と聞いたら、その次長が、「谷さん、まだ●▽の書類を頂いてないので、止まっていますよ。」と言った。なにっ? あと10日後に実行予定の融資が、一つの書類が揃ってないので、実行の手筈が進んでいない? じゃ、何で電話ででも知らせてくれなかったのかと聞いたら、「それは・・・担当者に伝えておきます。」と言う。結果的にその足りない書類を揃えるのには少し時間がかかったので、その融資は間に合わなかった。それで仕方なく私は、自分の生命保険を担保にして、保険会社からの借金をして、やっとその危機をしのいだのです。

その何か月か後、たまたま来ていた他のある銀行の駆け出しの若い営業が「私は、この会社には未来を感じます。今ある借入れを全部清算して、私共の銀行に一本化して下さい。」という言葉に乗ることにした。

私は滅多な事では取引先を変えることはしないのだけど、心底、銀行を変える必要を感じたのです。その時の銀行とは、今でもメインバンクとして続いています。相手の事を考えず、自分の都合だけで仕事をすると、相手に取り返しのつかない迷惑をかけ、そのしっぺ返しは、いつか自分の所に帰ってくるものです。

 

あの時、この会社を救ってくれた当時の東海銀行の鈴木さん。

Posted   パーマリンク

2024年02月19日(月曜日)

02.19. 23話. 目には目を。バナナにはバナナをもって勝つ。

1997年 1店目のGSの目の前に巨大な商社系GSが建ち、戦争が始まる。

私がKeePerの営業・トレーニングで全国を行脚している時、起業した時の1号店、共同石油高津波給油所の道を挟んだ目の前に、商社系の大型ガソリンスタンドが新たに造られることになった。それを知った私は、指をくわえて見ていることは出来ない。対抗して、こちらも全面改装をした上で勝負することにした。

2店目クリーンベースの運営がやっと軌道に乗ったばかりだった。だからと言って指をくわえ見ていて、むざむざ負けるような事は絶対に許せない。いやだ。ガソリンの安売り戦争と景品キャンペーン戦争の始まりです。

先に始まった目の前のスタンドの工事の後から高津波給油所の全面改装の工事を始めて、絶対に先に工事を終え、先にオープンする決意で突貫工事を敢行し、目の前の店の完成一週間前に全面改装完了を奇跡的に実現した。

目の前で始まった大型SSの工事の表示に「○○石油、バナナステーション」と店名が書いてあった。バナナステーションとは今風の店名なのだろうがその店のオープンイベントの景品は「バナナ」であることは明白だ。ならば、先にこちらがオープンし、オープンイベントではトラックいっぱいの「バナナ」を広い地域の皆さんにたっぷり配った。目には目を、バナナにはバナナをである。

 

1999年 闘いに勝つも、赤字に疲弊して閉店

戦争には絶対負けないので、赤字を承知での安売り戦争を続け、相手に徹底的に勝ち、わずか二年で相手に撤退を余儀なくさせる。最初の相手を撤退させても次の運営者と戦い、2つ目の運営会社にも勝ったが、3つ目の運営会社が来る。当然、また勝つが、しかし、こちらも莫大な赤字が残り疲弊しきった。前の店の3つ目の運営会社が撤退したところで、こちらも高津波SSの経営継続を断念する。目の前の店にも4つ目の運営者は現れず廃店となり、戦争をした2店は2年がかりの戦争の果てに、両店とも閉店をした。

典型的な共倒れである。この戦いを経験する中で「安売り競争」に対する憎くしみの感情を強く持つ。

 

2000年 閉めた高津波SSを「洗車屋快洗隊」として復活開店

戦争に疲れて閉店した高津波SSを、再び借り受けて、手洗い洗車とピュアキーパーを軸とした専門店「洗車屋・快洗隊」に改装して再開店する。

「小売り」はこの会社の生命線。安売りをせずに済む形で再開店した。

この年の12月は、平均単価3,500円/台くらいで売上げ約600万円であり、

とにかく朝から晩まで果てしなく洗車が続く大変な年末であったが、地獄のような安売り合戦に比べれば気持ちのいい疲れであった。

 

実践的なKeePer営業部は、全国での販売とトレーニングを続ける。

Posted   パーマリンク

2024年02月19日(月曜日)

02.19. 22話.キーパーはちょっと昔まで、KeeP”re”だった。

1993年、株式会社タニのスーパーポリマー事業部を分離してアイ・タック技研株式会社を設立。と同時に全国行脚していた活動が進んだ結果、全国各地に営業所+トレセンを造る活動に繋がる。最初は仙台営業所でした。株式会社タニから分離した会社を作る時、考えた社名は「(私は)I(谷)TA(コーポレーション)C、技研は本田技研の技研に憧れていたのでその真似です。それを、昔は社名にローマ字を使えなかったので「アイタック技研㈱」とし、このままではちょっと間が抜けていると思って「アイ・タック技研㈱」としました。㈱タニとはかけ離れ、意味ありげな名前ですが、本当は㈱タニと大して変わりません。2015年に東証二部に上場する前に、会社名とブランド名を同じにするために社名をKeePer技研株式会社にしましたが、それまでのアイ・タック技研㈱は、意味的には「私は谷コーポレーション」であって、㈱タニからあまり進化していません。

 

              ⇩

 

1995年にはサービス名を「キーパー」にしました。「キーパー」の意味は「守る(物・人・事)」「維持」「持続」でいいのですが、しかし、その時の英語表記とロゴは「KeePer」ではなく「KeeP”re”」でした。最後の二文字のスペルが「・・er」ではなく「・・re」です。本当は最初から「KeePer」にしたかったのですが、keeperですでに商標が取られていてPを大文字にするだけでは通らず最後の二文字を「・・re」にして、やっと通ったのです。Pが大文字なのはKeePerは「人間・パーソン」が主人公なのでPだけ大文字にしています。しかし、KeeP”re”でも、イギリス流ならばこれでいい訳ですし、当時、海外との取引は香港だけで、香港はちょっと前までイギリス領だったので、むしろ「KeePre」の方が自然なので、このまま20年近く「KeePre」のままでした。

それが、商標登録の「分類」の種類が拡大され、コーティングの分類で「KeePer」がOKになったので。2010年ごろ(?)正式に「KeePer」にしたのです。

            ⇩

 

更に会社名も上場前に「KeePer技研株式会社」として、今に至っています。

 

 

二十数年ぐらいも前でしょうか。

昔のKeePre ステッカーを貼って、レーシングカートにハマっていた昔の谷 好通。

 

 

 

Posted   パーマリンク

2024年02月18日(日曜日)

02.18. 21話. ㈱タニ、スーパーポリマー事業部全国行脚。谷 好通遊ぶ?

1994年、Qシステムで成功したクリーンベースの見学者に始めたワンデースクールは、Qシステムに使うケミカルなどの販売に繋がり、株式会社タニの2店舗に続く3つ目の事業としてスーパーポリマー事業部が本格的に活動し始めた。ワンデースクールを、見学者にだけでなく、こちらから全国各地に出て行って開き、結果として、Qシステムケミカルの販売の為の営業のように開いて行ったのです。

その活動が初期の時期においては北海道と東北が多かったのは、たまたま知り合いがいたから。しかし、北海道と東北はビジネスの機会も薄く、しかも遠いので必然的に飛行機に乗る事になり費用も多くかかった。だから、研修会と研修会の間が何日か開いても、飛行機代が勿体なかったので、例えば北海道に次の研修会の日まで残っていることもよくあったのです。その間の一日とか二日間は本当に何もすることが無く、うつうつとしていても仕方ありません。私は割り切ってレンタカーで北海道中を走り回りました。短く言えば遊ぶことにしたのです。

札幌から小樽、余市、積丹、滝川、旭川、留萌、稚内、宗谷から摩周湖、網走、知床、羅臼、中標津、美唄、霧多布、厚岸、釧路、襟裳岬、帯広、日高、夕張、苫小牧、白老、室蘭、伊達、大沼、函館、松前、

・・・思い出すだけでも行った処は数えきれません。ここまで行くのに1年間、5回、計7日間ぐらいの割り切り遊びでした。北海道は下手なツアコンより詳しい。と、一時は豪語していたぐらいです。

新しい事業は焦っても仕方ありません。こちらのペースで動けるまでには、少なくとも1年間ぐらいの無駄があります。逆に仕事が成熟してきて日程が詰まってくれば、日本国中、縦横無尽に飛び回り、走り回ります。一番激しい時は、一か月に32回も飛行機に乗ったこともあるぐらいでした。私が40歳代前半、最も体力があり、心も激しい頃のことです。

 

Posted   パーマリンク

2024年02月18日(日曜日)

02.18. 20話 Qシステム、ワンデースクール、スーパーポリマー事業部

1992年ガソリンスタンドになる前に45分で出来る最良の美装を突き詰める。

ガソリンスタンドのお客様は、給油時についでに待てる時間で出来なければ買わない。だから、待てる時間を45分と設定した。その上で、横浜で習った磨きとポリマーコーティングの知識と技術を活かし、45分での最良の美装「Qシステム」を、市販の色々なケミカルと道具を組み合わせて工夫して作った。この時造ったQシステムが今のピュアキーパーのはるか昔の原型です。

たった45分の作業でも、当時普通の洗車機洗車が300円/台だった時、Qシステムは5,500円/台(3か月耐久)で、お客様がご自分でWAX掛けをするよりキレイにツルツルになって喜び、多くの方がリピーターになった。

 

1993年、総量規制が外れクリーンペースWithがガソリンスタンドになる。

1年後、ガソリンを売っていないガソリンスタンド、洗車とコーティングの専門店クリーンペースWithは、共同石油クリーンベースサービスステーションという名のガソリンスタンドになった。そうしたら、それまでよりはるかに多くの給油のお客様が来た。そのGSクリーンベースの多くのお客様にQシステムは受けた。そしてQシステムを含めた洗車収益がこの年の12月、405万円の売上を上げて、全国の洗車売上コンクールで全国(愛知?)の2位になった。

 

1994年、見学客に対してスクールが始まり、スーパーポリマー事業部出来る。

無名のクリーンベースが突然全国ランキングに現れて評判になり、見学のお客様が来られるようになり、別々の対応が面倒になって週1回の「ワンデースクール」を始めた。と同時にQシステムで使うケミカルと道具の供給・販売が始まり、スーパーポリマー事業部が出来、のちのアイ・タック技研㈱(KeePer技研㈱の前身)につながる。

最初は数人規模のワンデースクールが、あれから30年後、「10種類以上のKeePer技術研修スクール」として全国20か所のトレーニングスクールで2023年は約56,000人の方が受講されるようになった。

 

毎月KeePer TIMESに載る毎月の技術スクール開催案内と申込書

(写真は4年前のタイムスケジュール)

 

Posted   パーマリンク

ページのトップへ ページのトップへ

  • 最近の記事

  • プロフィール

    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
    読めば読むほど元気になること間違いなし。・・・の、はず。

  • カレンダー

    2024年9月
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930  
  • リンク集

  • 過去の記事

  • RSS1.0

    [Login]

    (C) KeePer Giken. All rights reserved.