谷 好通コラム

2024年02月16日(金曜日)

02.16. 18話.人も増えて、会社は順調。そして土地は買ったが、

起業して社長になり、自分が偉くなったような勘違いをして、偉そうな振る舞いと言動で、社員が居つかず、連れ合いにも負担が大きくかかり体まで壊させてしまった失敗で、馬鹿社長はやっと目が覚めたのでした。せっかく起業して店舗が忙しくなったのに、従業員をキチンと大切にしないといけない事にやっと気が着いて、従業員不足で廃業するような羽目にならずに済んだのです。

 

そんな失敗の後、ちゃんと従業員が増え始めてガソリンスタンドの経営も順調に行って、しばらくすると今度は、2軒目の店舗が猛烈ら欲しくなりました。そう思ったらもうじっとしていられず2軒目の用地を探し始めます。1軒目のように既にあるガソリンスタンドを借りられれば(できれば近くで)一番いいのですが、起業したてでまだ信用などかけらもないような会社に土地建物を貸してくれるような虫のいい話はある訳が無く、いつの間にか土地を買う方向になったら意外とあるもので、すぐ出たのです。土地を買う話ならばあとくされもなく、土地調達費用も土地が担保なら信用も関係なく銀行は融資してくれます。そんな感じで気軽に買ってしまったのが1号店から車で10分ぐらいの松坂町にある畑で132坪。その頃の私は、どんな場所でも自分の腕にかかればガソリンスタンドの繁盛店を必ず造れると自分は思い込んでいたのです。

しかし、土地を買ってしまってからとんでもないことが分かりました。その場所に2号店のガソリンスタンドでは当面ガソリンを販売出来ないと分ったのです。当時は、石油製品暫定措置法という法律があって日本国中のガソリンスタンドの総数を制限しており、どこかのガソリンスタンドを閉めなければ新しい1軒を造れないのです。しかし、私はガソリンスタンドの運営では自信もあったし、みんな知っていたので、元売りの共同石油が、最果てにあるようなちっぽけなガソリンスタンドの1軒ぐらい閉めてくれると思っていたのですが、そうも行かなかったのです。だから、この新しい土地にガソリンスタンドを建てても、土地の借金と建設費の借金を払いつつ、その土地からは一円の収入もない状態が一年以上続くことが分かったのです。このままでは1号店からの収入だけで1年以上賄って行かなくてはいけません。

ここからがKeePer誕生の始まりです。

 

あれから二十数年後、売却され、住宅展示に使われているあの時の松坂町の土地。

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2024年02月15日(木曜日)

02.15.今日は上半期決算説明会と、そのあとLABO越谷店に行く。

今日はKeePer技研株式会社の上半期決算の説明会を、

東京 兜町にある証券取引所脇のアナリスト協会のビルで行いました。

1年に二回ある決算説明会は、

決算発表が終わってから数日後に行っています。

しかし今は、決算発表後の当日、リモートで行う会社が多くなっているそうで、

ならば、

その方が皆さんがより喜ばれるのならば、

今後は、この会社も本当にそうしようかと考えました。

 

今日の説明会には、

多くのアナリストの方にお集まりいただき盛況だったのですが

昨今はリアルで出席される方が徐々に減って、

Webライブでご覧になる方がものすごく増えているのです。

今ではリアルの何倍かの数の方がWebライブでご覧になっています。

それならば、発表当日に会社からライブで絵を撮って発信すればいいし、

私達も何人かで東京まで出てくることも必要ないから、

決算発表当日すぐにでも流すことが出来ます。

お互いにその方が便利で合理的であるという事なのでしょう。

 

解決しなければならないのは、

投資家の皆さんからのご質問に対して、

どのようにすれば、キチンとお答えできるのか、

その点はきっと、すごくイイ方法がある筈なので、研究したいと思います。

 

第一四半期はビッグモーター絡みの風評被害がたたって残念な結果でしたが、

第二四半期はそれを完全に克服して、

第二半期単独では上場来の最高益を出したのですが、

その最高益でも、第一四半期のへこみまでは少しだけ埋め切れませんでしたが、

しかし、

完全に復調のペースに乗せられたことは間違いなく、

会社としては上々の進捗であるものと確信しているのです。

と、ここで力説してもしょうがありませんが。

 

 

この説明会が午後2時半には終わったので、

このまま愛知に帰っても勿体ないと思い、

念願であった、新店LABO越谷店に訪問してきました。

この店舗は、初めての店舗デザインから出来ていて、

しかもオープン以来絶好調で、

オープン翌日のこの2月は400万円オーバー確実でしょう。

日本国中で雨か雪が降っているのに、東京だけが何故か晴れでした。

越谷店のゲストルームはもの凄く広くて快適そうでした。

前の建物の取れなかったトラスがお洒落なアクセントになっています。

十二分な広さのブースにはお客様用テラスが着いています。

かとうさん、小市店長、おかだ君。

小市店長。の、どや顔

人気一番、かとうさん。

だから、もう一枚。

いつか、必ず出てくる「おかだ君」

大変残念ながら休日で、店にいなかったおおたチーフ。

店舗ページから小さな写真を持ってきて拡大してのでボケているが、・・

残念ながら、大変残念ながら休日で、店にいなかったおおたチーフ。

 

 

帰る頃にはきれいな夕陽が見送ってくれた。

 

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2024年02月14日(水曜日)

02.14. 17話.儲かるようになって勘違い大バカ病が発症、私の一大転機。

安売りでガソリン増販になり客数が増え、増えた来店客数に対してO.TBA.Sメンテナンス収益を強力に推進して稼ぎ、家のローンを完済したら、悪い勘違い病が発症した。繁盛して儲かっている店の「社長」である私は、自分がまるで親分か神様にでもなったかのような気分で私の指示に従ってくれているスタッフ達に対して、私は今考えても恥ずかしくなるぐらい横暴になって大きな声で叱責もした。今の時代で言えばパワーハラスメントであったかもしれない。そんな状態では若い子も長く続くはずもなく、人は減っているのに、店はますますお客様が増えメンテナンス収益作業も忙しくなっていた。人手が全く足らなくなって店舗の主力である私と連れ合いに負担が大きくなっていた。

連れ合いは私が起業するまではある会社の食堂で働いていて、ガソリンスタンドの仕事には全くの素人であったが、企業と同時に店舗の仕事を手伝ってくれるようになっていた。しかし、店が忙しくなってきて、実質、店舗運営の主力になっていて、私は乱暴な言葉を若い店の子に浴びせるとまた辞めてしまうので、その悪い矛先が連れ合いに向くようになり、私は乱暴な言葉を連れ合いに向けがちになり。連れ合いの体調が良くなくトイレからなかなか出てこない時などにも「早く出てこんかっ!」と、非情な言葉を浴びせた。憎むべき大バカ者である。

ある日、連れ合いがどうしてもお腹が痛いのでと病院に行ったのだが、病院から帰ってきて「病院の先生が、『すぐに入院して、すぐ手術をしなきゃいかん。』と言われた。」と言い、入院の準備に家に帰った。進行した子宮筋腫だった。それを聞いて、自分のバカさ加減、一番大切で一番苦労をさせた人をここまで追いやってしまった自分の非情な残酷さを突き付けられ、恥じ入り、私は店の真ん中で泣くしかなかった。私は本当に憎むべき大バカ者であった。

 

あの時から自分の中の何かが変わって、自分が発した言葉や行動によって、相手がどのような気持ちになったのかが、ふっと、分かるようになって、少なくとも相手を傷つけるような乱暴な言葉を(あまり)発しなくなった。

と同時に、お客様の気持ちがふと伝わるようになって、それが商売にとってものすごく役に立つようにもなった。販促施策を考えるのにもの凄く役に立つのです。これが私自身の一大転機にもなったし、商売としても一大転機にもなったような気がします。

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2024年02月14日(水曜日)

02.14. 16話.起業後、1年で家のローンを完済。

安売りでガソリンの販売数量を飛躍的に伸ばしても、安く仕入れられなかったので忙しい割に利益は少なかった。だから、スタッフ達が疲弊するばかりで給料は上げられなかった。当然、若い子は定着せず、悪いパターンの寸前だった。そこで、安売りによる販売数量の増加は、単なる来店客数の増加と割れ切り、増加した来店客に対しての「油外収益(メンテナンス収益)」の販売を猛烈に強化しました。

メンテナンス収益とはオイル交換、TBAS(タイヤ、バッテリー、サービス・洗車など)の総称で、ガソリンを入れに来たお客様に対して「安全点検」をして、悪かった箇所をお客様に報告して解決する為の作業をする。一番多いのはオイル交換で、そのサイクルは1,500kmごと、ほぼ一か月に一回のオイル交換が標準だった。現代のような化学合成オイルはなく、熱などで性能劣化が早い鉱物オイルだけだったこととエンジンの加工精度そのものがまた低かったので、ほぼ毎月のオイル交換が必要だった。現代のようにオイル交換の目途が10,000km以上であるのとは大違いだ。ラジエターには無交換のロングライフクーラント(LLC)ではなく、当時は毎冬交換の「不凍液」で、「さび止め」と交換前の「洗浄剤」がつきものだった。春になると今度は不凍液を抜く作業がある。また「さび止め」と抜く前の「洗浄剤」がつきものだ。ガソリンを入れに来るお客様の車はオイルTBASの収益の宝庫であったのです。昔は。

 

ガソリンなど燃料からの収益は1㍑当たり10円程度であってもメンテナンス収益は燃料1リットル当たり20円以上も稼ぐガソリンスタンドもあり、業界の中で「優秀店」として、元売りから表彰されていた。私もその端くれでガソリンの給油はスタッフ達に任せて、私は朝から晩まで「安全点検」と「O・TBA・S」の作業に没頭した。ガソリンは安売りをして増やした客数の車に対して「安全点検」→「O・TBA・S」メンテナンス収益を重ね、この共同石油高津波給油所は、高津波サービスステーションとして高収益店舗を実現したのです。そして半年後(起業後1年後)、私は6年前に中古住宅で買った自宅のローン残金約900万円を、めでたく完済したのです。

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2024年02月13日(火曜日)

02.13. 15話.株式会社タニ、共同石油高津波給油所。

起業を志して約1年、1985年8月ようやく会社を登記。代表取締役谷 好通、株式会社タニ。店舗は共同石油 高津波給油所、本社および店舗の住所は愛知県刈谷市山池町。ですが、山池町給油所とはせずに高津波給油所としたのは起業をした心意気というかやる気満々で、「山池」という平和なイメージよりも、店舗の向かい側の住所が「高津波町」だったのでも、こっちの方が勢いがいいと高津波給油所としてしまったのです。約30年前に出来た古いタイプの敷地約150坪の小さなガソリンスタンドでした。

さらに起業当時はイケイケドンドンで、とすれば当然「現金安売り看板」を開店当初から出して「売ったが勝ち」の勢いであった。もともとこの店は安売りを一つの看板にしていたので、比較的おとなしいイメージの共同石油マークを上げていながらの安売り看板だったので、周囲の同業者からの反発も強かったが、「一文無しからの起業」であったこともあり、とりあえずの現金が欲しかったこともあって、元売りからの圧力にも従わず現金安売り販売はやめなかった。

しかし、元売りからの要請に逆らっての安売りだったので、増販に伴う仕入れ価格の値引きは得られず薄い口銭での販売が続き利益はあまり出なかった。しかし、メジャーな元売りマークでの安売りは効果てきめんで、販売数量はぐんぐん伸びて、あの時代の業界のステータスであった100kl販売を軽くオーバーして、元売りも販売数量の増販については絶賛して他店の見本だとした。

しかし、安売り効果でガソリンの販売数量が増えれば増えるほど店のスタッフ達は疲れた。それでも利益は少なかったので増員することも出来なかったし給料は決して高くなかった。

 

 

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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