谷 好通コラム

2024年02月19日(月曜日)

02.19. 22話.キーパーはちょっと昔まで、KeeP”re”だった。

1993年、株式会社タニのスーパーポリマー事業部を分離してアイ・タック技研株式会社を設立。と同時に全国行脚していた活動が進んだ結果、全国各地に営業所+トレセンを造る活動に繋がる。最初は仙台営業所でした。株式会社タニから分離した会社を作る時、考えた社名は「(私は)I(谷)TA(コーポレーション)C、技研は本田技研の技研に憧れていたのでその真似です。それを、昔は社名にローマ字を使えなかったので「アイタック技研㈱」とし、このままではちょっと間が抜けていると思って「アイ・タック技研㈱」としました。㈱タニとはかけ離れ、意味ありげな名前ですが、本当は㈱タニと大して変わりません。2015年に東証二部に上場する前に、会社名とブランド名を同じにするために社名をKeePer技研株式会社にしましたが、それまでのアイ・タック技研㈱は、意味的には「私は谷コーポレーション」であって、㈱タニからあまり進化していません。

 

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1995年にはサービス名を「キーパー」にしました。「キーパー」の意味は「守る(物・人・事)」「維持」「持続」でいいのですが、しかし、その時の英語表記とロゴは「KeePer」ではなく「KeeP”re”」でした。最後の二文字のスペルが「・・er」ではなく「・・re」です。本当は最初から「KeePer」にしたかったのですが、keeperですでに商標が取られていてPを大文字にするだけでは通らず最後の二文字を「・・re」にして、やっと通ったのです。Pが大文字なのはKeePerは「人間・パーソン」が主人公なのでPだけ大文字にしています。しかし、KeeP”re”でも、イギリス流ならばこれでいい訳ですし、当時、海外との取引は香港だけで、香港はちょっと前までイギリス領だったので、むしろ「KeePre」の方が自然なので、このまま20年近く「KeePre」のままでした。

それが、商標登録の「分類」の種類が拡大され、コーティングの分類で「KeePer」がOKになったので。2010年ごろ(?)正式に「KeePer」にしたのです。

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更に会社名も上場前に「KeePer技研株式会社」として、今に至っています。

 

 

二十数年ぐらいも前でしょうか。

昔のKeePre ステッカーを貼って、レーシングカートにハマっていた昔の谷 好通。

 

 

 

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2024年02月18日(日曜日)

02.18. 21話. ㈱タニ、スーパーポリマー事業部全国行脚。谷 好通遊ぶ?

1994年、Qシステムで成功したクリーンベースの見学者に始めたワンデースクールは、Qシステムに使うケミカルなどの販売に繋がり、株式会社タニの2店舗に続く3つ目の事業としてスーパーポリマー事業部が本格的に活動し始めた。ワンデースクールを、見学者にだけでなく、こちらから全国各地に出て行って開き、結果として、Qシステムケミカルの販売の為の営業のように開いて行ったのです。

その活動が初期の時期においては北海道と東北が多かったのは、たまたま知り合いがいたから。しかし、北海道と東北はビジネスの機会も薄く、しかも遠いので必然的に飛行機に乗る事になり費用も多くかかった。だから、研修会と研修会の間が何日か開いても、飛行機代が勿体なかったので、例えば北海道に次の研修会の日まで残っていることもよくあったのです。その間の一日とか二日間は本当に何もすることが無く、うつうつとしていても仕方ありません。私は割り切ってレンタカーで北海道中を走り回りました。短く言えば遊ぶことにしたのです。

札幌から小樽、余市、積丹、滝川、旭川、留萌、稚内、宗谷から摩周湖、網走、知床、羅臼、中標津、美唄、霧多布、厚岸、釧路、襟裳岬、帯広、日高、夕張、苫小牧、白老、室蘭、伊達、大沼、函館、松前、

・・・思い出すだけでも行った処は数えきれません。ここまで行くのに1年間、5回、計7日間ぐらいの割り切り遊びでした。北海道は下手なツアコンより詳しい。と、一時は豪語していたぐらいです。

新しい事業は焦っても仕方ありません。こちらのペースで動けるまでには、少なくとも1年間ぐらいの無駄があります。逆に仕事が成熟してきて日程が詰まってくれば、日本国中、縦横無尽に飛び回り、走り回ります。一番激しい時は、一か月に32回も飛行機に乗ったこともあるぐらいでした。私が40歳代前半、最も体力があり、心も激しい頃のことです。

 

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2024年02月18日(日曜日)

02.18. 20話 Qシステム、ワンデースクール、スーパーポリマー事業部

1992年ガソリンスタンドになる前に45分で出来る最良の美装を突き詰める。

ガソリンスタンドのお客様は、給油時についでに待てる時間で出来なければ買わない。だから、待てる時間を45分と設定した。その上で、横浜で習った磨きとポリマーコーティングの知識と技術を活かし、45分での最良の美装「Qシステム」を、市販の色々なケミカルと道具を組み合わせて工夫して作った。この時造ったQシステムが今のピュアキーパーのはるか昔の原型です。

たった45分の作業でも、当時普通の洗車機洗車が300円/台だった時、Qシステムは5,500円/台(3か月耐久)で、お客様がご自分でWAX掛けをするよりキレイにツルツルになって喜び、多くの方がリピーターになった。

 

1993年、総量規制が外れクリーンペースWithがガソリンスタンドになる。

1年後、ガソリンを売っていないガソリンスタンド、洗車とコーティングの専門店クリーンペースWithは、共同石油クリーンベースサービスステーションという名のガソリンスタンドになった。そうしたら、それまでよりはるかに多くの給油のお客様が来た。そのGSクリーンベースの多くのお客様にQシステムは受けた。そしてQシステムを含めた洗車収益がこの年の12月、405万円の売上を上げて、全国の洗車売上コンクールで全国(愛知?)の2位になった。

 

1994年、見学客に対してスクールが始まり、スーパーポリマー事業部出来る。

無名のクリーンベースが突然全国ランキングに現れて評判になり、見学のお客様が来られるようになり、別々の対応が面倒になって週1回の「ワンデースクール」を始めた。と同時にQシステムで使うケミカルと道具の供給・販売が始まり、スーパーポリマー事業部が出来、のちのアイ・タック技研㈱(KeePer技研㈱の前身)につながる。

最初は数人規模のワンデースクールが、あれから30年後、「10種類以上のKeePer技術研修スクール」として全国20か所のトレーニングスクールで2023年は約56,000人の方が受講されるようになった。

 

毎月KeePer TIMESに載る毎月の技術スクール開催案内と申込書

(写真は4年前のタイムスケジュール)

 

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2024年02月18日(日曜日)

02.18. 19話. 一晩掛けて磨いたのはただの自己満足だったか

1992年月1月 洗車とコーティングの専門店「クリーンベースWith」

ガソリン無しのガソリンスタンドで一年間食いつないでいくには何か武器が要るので、当時流行り始めた「ポリマーコーティング」を横浜まで習いに行くことにしました。一日おきに日帰りで横浜まで行く大変な日々で、私の人生の中でも最も過酷な時間を過ごしていた時期でした。

そこで習ったのは、ポリッシャーを使う「塗装の研磨」と「ポリマーコーティング」。更に横浜のモービルクリーンベース高木専務から学んだ最も大きな教訓は「売るのではなく、教えることが最強だ。」ということ。洗車とポリマーコーティングの専門店「クリーンベースWith」が開店した。

1992年10月 ソアラに乗った娘さんは、どうしても車に近づかなかった。

「研磨」と「ポリマーコーティング」は、魅力的な美しい商品であったが7万円かけてまで欲しがる人は一部のマニアックな人だけ。値段は高くて儲かったが数は全く売れない。数を売る為に使った宣伝広告費の方がむしろかかった。ある時、地元のちょっとした工場の社長の娘さんが高価な「ソアラ」に乗って「ハードシールド」という名の研磨+ポリマーコーティングを注文してくれた。滅多に売れないハードシールドが売れたので、私たちは張り切って、職人魂に火をつけ一晩かけて磨きに磨いて、ほんのちょっとの傷まで無いように全神経を傾けて磨いた。我ながら見事に磨けたそのソアラにポリマーコーティングを塗って仕上げた。

その後娘さんが取りに来られたので、磨き上げた極上の肌を見ていただこうと「どうぞ近づいて見て下さい。この辺なんかぞくっとするような肌に仕上がっていますよ。」と言って、塗装の肌を指して示すが、娘さんは逆に、車からだんだん離れて、全体を見渡すように車を見て「すごいっ!キレイ」という。そこで私は「そんなに離れたらせっかくの磨き上げた肌が見えませんよ。」と言うが、娘さんは「いえ、充分キレイですよ。ものすごくキレイです。」と、かえって車から離れる。その時私は「まぁ素人だから、この良さは判らなくても仕方ないか。」と思った。極上の仕上りはプロの目で見て初めて分かるものだった。

しかし同時に「これではまったくダメだな。」とも思ったのでした。お客様は、すべて普通に素人だ。当たり前だ。普通の人が欲しがるような商品でなければ提供する意味なんて全くない。一晩掛けて磨いたのはただの自己満足だったことに気が着いたのでした。

 

クリーンベースWithは。車好き達で賑わったが、収益的には全然だった。

画面左の黄色い箱の下に計量器が隠されている。

(1年後すぐにガソリンスタンドが出来るように)

 

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2024年02月18日(日曜日)

02.18. 18話の書き直し。実績も増員も出来、2店目用地を買った、が・

1987~90

私のバカな勘違いに気づかされた後、私の何かが変わったのでしょうか、徐々に増員が出来始めて、社員を大切にする会社らしい会社になっていった。そういたら実績も上がり、資金も出来、増員も出来てきた。この四年間は仕事も順調で資金的にも余裕があり、ちっぽけな表彰も受けて、元売りからの接待も受けて、仕事の居心地も良くて平和であり、世の中には一店舗で終わる会社が多いが、きっと、こんなぬくぬくの布団の中の居心地から抜け出せなくのだろう。

しかし、つまらない。猛烈につまらなくて、次の店舗の土地探しを必死でやっていた。それでやっと見つけたのは1号店から南に3km程離れただけの松坂町132坪の土地で、交通量からみてもマーケット的にも、今だったら絶対に手を出さない土地です。しかも、この土地を買ってしまったのです。先がまだ見えない内から始まる6,600万円もの借金の返済。

 

1991年 ガソリンが扱えない。仕方なく洗車とコーティング。

無理して買った132坪の土地だが、もう一つ厄介な大きな問題があった。その頃の日本にはガソリンスタンドの総量規制があるが(日本国中のどこかのガソリンスタンドを1店舗閉めなければ、新ガソリンスタンドを開くことが出来ない)、販売力のある㈱タニが借金までして土地を買い、新しいガソリンスタンドを造ろうというのだから、元売りさんは、全国のどこかのあまり売れないガソリンスタンドを閉めてくれて、㈱タニにガソリンスタンドの権利を造ってくれるだろうと”甘く”考えていたが、もちろん世の中はそんなに甘くはなく、誰もガソリンスタンドを閉めてはくれなかった。

しかし、総量規制は暫定措置法で規制が切れるのは1年間。ガソリンスタンドの施設を造ってしまっても、1年間、ガソリン無しで運営すればいい訳で、つまり他の事をやりながら1年間食いつなげば問題ない。それが、ガソリンスタンドで起業した会社が、コーティングの会社として大きく発展した元々の原因だったのです。つまり、谷 好通が世の中を舐めた所から始まっているのです。

あれから二十数年後、売却され、住宅展示に使われているあの時の松坂町の土地の今。

 

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    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
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