谷 好通コラム

2007年12月28日(金曜日)

1808.私の心の中の悪魔?

心の中にドロドロしたものがあった時、
それを文字にして書いていくと、それを読んだ時にその存在に自分で気が付く。
自分勝手なものであったり、
自分の中のネガティブな部分、
たとえばヒガミであったり、ねたみ、
憎しみであったり、
理性的とはとても言えないドロドロとした欲望であったりして
そういうものが発端となって出てくる悪しき感情、
心の中の悪魔の存在が
文字にして見ると、客観的になって自分でもよく解る。
だから恥ずかしいと思うし、
イカンなと思い、
それがたとえ長い文章であっても、ばっさりと消すことがある。

 

 

だったら
最初から差しさわりのない事だけを選んで書けば良さそうなものだ。
本音なんかを書くから、
「書いてはいけないこと、人を傷付けそうなことまで書いてしまって
文字にして読み返すことによって自分が客観的になっていて、
間違いに気が付き、ばっさりと消す。」なんて無駄なことをすることになる。
最初から無難なことだけを人ごとのように書いていれば、
そんな無駄なことをせずに済むかもしれない。

 

最初から、評論家然としたり、
人ごとばかりを書いたり、カッコいいと思われるような事ばかりを書いたりしていれば
無難かもしれないし、その方がいいのかもしれないが、

 

長くは続かないし、つまらない。

 

カッコつけたことばかり書こうと思っても長くは続かない。
本当の自分を隠し続けては長くは書けない。
どこかでつじつまが合わなくなるし、ウソがばれる。

 

 

変な話で恐縮だが、
お化粧をしっかりしている女性が、
結婚しても、旦那さんに決して化粧をとった素顔を見せないという人がいるそうだ。
夜まで、だそうだ。
すっピンにそこまで自信がないのか、
すっピンが嫌いなだんなさんなのか、
素顔は本当の自分ではないと思っているのか、よく解らないが、
きっと長くは続かないし、心のどこかでいつも不安だろうし
そんな化粧をしていること自体楽しくないだろう。

 

ましてや心の化粧をし続けて、
決して心の素顔を見せない人は、
自分が何なのかすら解らなくなってしまうのでないか。

 

素顔を見せなくてはならない。
本当の自分を愛して欲しいならば、素顔を見せなくてはならない。
嘘を言ったり、芝居をしたままで生き続けても、そんな人生には意味がないし、
楽しくないし、つまらない。
だから、
書くとするならばいつも自分が思ったまま、感じたまま、考えたまま、
そのままを書いて、
その中に自分の醜い部分を見つけたら、
それを認めた上で、そんな自分を変えればいいと思う。

 

嘘をつき続けるのは大変だ。
常に自分を偽り続ける緊張感を持って生きていくのは、
本当につらいし大変だろう。
精神的に、脳細胞的に、自分を破壊してしまいかねない危険すらある。
それを思うと、
自分自身を変えることの方がよっぽど楽なはずだ。
自分の考えたこと、思ったことをそのまま書いて、
客観的に見て、
「これはイカンな。」と言いながら書いたものを消し、
書き直して、ついでに自分も変えればいい。
その方がよっぽど楽だし、楽しいはずだ。

 

無理をするのは良くない。
「無理」とは「理が無い」という意味で、いいことは何もない。
お化粧を取るのが怖いように
本当の自分の姿を出すのが怖いのならば、
本当の自分が嫌いならば、
それよりもうんと楽しくて楽ちんな、素の自分を出すようにしたほうがいい。
芝居ではない。
本当の自分をさらけ出し、素の心を出し、変身をすることだ。
それとも死ぬか?せっかくこの世に出て来た幸運をそんなつまらないことで捨てるか?
自分を隠したまま、芝居をしたまま、生の幸運を捨てるか?
自分のそのままを出すだけでいいのに、それが怖くて、その幸運までを捨てるか?

 

本当の自分をさらけ出した時に、
自分自身が嫌いで、自信が無かったはずなのに、
意外にも、「かわいいね。」「うれしいよ。」って言われるはずだ。
絶対に、100%の確率でそう言われるはずだ。

 

が、もし、万が一、
「お前の素顔なんか見たくない。とっとと化粧をして来い。」なんて言う奴がいたら、
そんな奴とは、一刻も早く別れたほうがいい。
そいつはとっくに別れているべき非人間的大馬鹿野郎だったのだ。
その馬鹿野郎は、人間を人としてを愛していたのではなく、
肉体が欲しかっただけであったり、お金が欲しかっただけであり、
一緒に連れて歩くペットが欲しかっただけでしかなかったのだ。
つまり、その馬鹿野郎こそ“が”人間ではなかったのだ。
それが解っただけでもラッキーである。
とっとと別れるべきことが解ったことで、人生の貴重な時間を無駄にせずに済んだ。

 

誰でも、自分の心の中に弱い部分があるように、
誰でも自分の心の中に悪魔を持っている。
それを隠すことはない。誰でも持っているのだから隠すことはない。
素の自分を何の警戒心もなく出して、
自分の中に、相手を傷付けたり、ひがんだり、自分勝手な心を見つけたら、
それを恥じればいいし、イカンと思えばいい。
「反省だけならサルでも出来る」と言うが、
サルは反省のカッコはできるが、本当の意味の反省は出来ない。
自らを省み、イカンと思う心、反省は人間だけが出来る特技であって、
それが出来るから、自らを変えていく能力を人間だけが持っているのだ。

 

自らを変えるには、
これではイカンなと思い、自らの力で自らを変えるか、
違う姿に化けるかである。

 

化けるほうが簡単で良さそうだが、化け続けることは絶対出来ないもので、
必ず化けの皮がはがれて、狸のしっぽが出ることになる。
だからもっと一生懸命に化け続けるのだが、
これは大変疲れることで、悪いことに、
化け続けると自らの姿を見失って、
とうとう自分が壊れてしまうのが関の山となる。

 

そんな馬鹿馬鹿しいことなどせず、素の自分をポロンと出してしまい、
「可愛いねっ」って言われたほうがうんと楽だし、賢いことだ。

 

そのまんま生きよう。
しかし、私の心の中にいる悪魔はそう簡単には消えない。
素の自分を出して、イカンな~と思いながら自分が変わって行っているつもりでも、
私はいまだにバリバリ現役の「凡人」であるし、
人を傷付けたり、ねたんだり、ひがんだり、憎んだりも度々だ。
そう簡単に自分を変えることなど出来はしない。
いつまで経っても葛藤であるし、反省の連続でもある。

 

しかし、自分を飾ったり、化けたりはしないだけ楽ちんである。
いいカッコをしようと思わないだけ、楽である。
無理しないほうがいい、
無理して良いお父さんであったり、良いお母さんであったり、
リッチに見えたり、無理して今流行のセレブに見えたいと思う必要もない。
素のままが良い。
「自分がどのように人から見えるか」なんて、考える必要はまったくない。
カッコよく見えたいと思う気持ちがあったとするならば、
それは、自分が嫌いだからだのではないか。素の自分が嫌いだからなのではないか。

 

清潔であることと、化けることとは似て非なるものである。
清潔でありたい。
化けているのはとてもつらいし自分がどこかへ行ってしまう。
素の自分のまま、清潔でいられたら、それが、一番いい。

 

 

今日は、午後4時過ぎまで事務所で仕事をしゃかりきになってやり、
夕方6時くらいの新幹線に乗って、福山までやってきた。
快洗隊・新涯店のみんなと会うためだ。
今回はそれだけ。出張としては非効率ではあるが、これはどうしても来たかった。
名古屋を出てくる時に、東海店の杉浦君に電話をした。
「今日はどうだった? 最近の東海店はすごいね~。
今から新涯に行って来るよ。」
「えっ、新涯店ですか? じゃあ今日は飲むんですね。いいですねー。」
「あー、あっ、そういえば東海店のメンバーとは飲み会やってなかったっけ。」
「えー、まだです。楽しみにしてますよ。」

 

年末もあと四日間。
ここ何ヶ月か、ずっと快洗隊の面々と飲んで回ったが、
まだ東海店が残っていた。
東海店は本社から10分ほどしか離れていない。
一番近いところが残っていたのは、不思議だ。

 

新涯店のみんなと飲んだ。
私はカメラのメディアを忘れていったので、
アルバイトさんの村上君の携帯カメラでのワンショット。
「洗う、磨く、掃除する。」の清潔戦士たちである。

 

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    代表取締役会長兼CEO

    谷 好通

    キーパーのルーツであり、父であり 男であり、少年でもある谷好通の大作、名作、迷作コラム。
    読めば読むほど元気になること間違いなし。・・・の、はず。

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